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恋愛のターム

 ゆるーりch、バイアンドch(現・HARE)、になにch等の恋愛系YouTuberの動画には大変お世話になった。好きな人について色々と頭を悩ませている時に、答えの出ない話を延々と聞いてくれる女友達のようなものだった。


 あきらかな「恋愛脳」で「躁うつ脳」であるぼくは、好きな人の一挙手一投足に(あるいは何も動きがない時にはその静寂自体に)情緒が大きく揺り動かされるのと同様、ある動画を観ては落ち込み、ある動画を観ては励まされた。


 この種の恋愛マニュアル的なものはYouTubeの中だけ限っても無数に存在しているわけだが、その多くは内容的にはほとんど同じことしか言われておらず、それらの差異は言い回しや構成、編集を含めたレイアウトの中にしかほとんど存在しない。

 よく女性同士のコミュニケーションの特性として、コミュニケーションすること自体が目的として行われるというようなステレオタイプな言い方が用いられるが、その表現がうまく当てはまっているように動画群が形成されているように思う。

 最初は何気なく再生していただけにも関わらず、その動画群を連鎖的にぐるぐる巡回していくうちに脳がHighに、実体以上に「恋愛脳」になっていく自分を発見するのである。


 しかし、突如としてそういった堂々巡りがどれほど無意味であるかに気付く瞬間があった。

 無意味というと極端だが、どれだけぼくが頭を悩ませようが結局「相手の気持ちなんてわかるはずがない」という結論に至ったわけだ。

 これはあまりにも凡庸な結論の一つであり、恋愛についての一種の敗北宣言である。


 ──


 スコットランド生まれの精神科医であり作家のR.D.レインが自らの半生を記した『レインわが半生』の訳者あとがきには以下のようなことを書いてあった、と記憶している。


 〈精神病患者たちの心の実像を明らかにしようとするレインの飽くなき探究は失敗ばかりであった。その根本的な原因は彼が“『人間の心は必ず理解できるはずだ』と思い込んでしまっていた”点にあったように思う。〉


 ぼんやりとした記憶だが、レインの反精神医学的なスタンスが「他者に寄り添おうとする優しさ」というよりも「他者の気持ちが理解できないのはなぜなのか。何が他人の気持ちを理解できなくさせているのか」という疑問から出発しているように感じ、レインの本を読んだ当時のぼくは多いに感銘を受けた。


 「寄り添おうとするためには、相手の心を“ちゃんと”理解しないといけない」。そういう発想をするレインのことは今でも好きだし、精神科医の理念としては素晴らしいものでもあろう。しかし、ぼくは残念ながら精神科医ではないし、精神科医を名乗ってもいない。


 思えばぼくも同じような過ちを犯していたのかもしれない。

 相手の気持ちを理解しようとするぼくは、裏返せば「ぼくの気持ちも必ず理解されるはずだ」という身勝手で押し付けがましい願望によって駆動されていたのだ。

 これは限りなくストーカー的な発想に近い。

 そのような状態のことを恋愛のターム(術語)では“重い”と呼ぶ。

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