文化消費はアンチ・コミュニティーの夢を見るか?
お笑い芸人で小説家の又吉直樹のYouTubeチャンネルを何気なく観てたんです。
すると彼は『行き場のない話シリーズ』と題した芸人仲間たちとの雑談回で、「誰に話せばいいかわからないからここで話そうと思うんだけど、、、」ということで以下のような話をしていました。
又吉氏は、敬愛する太宰治の末弟子の回顧録を読み、「太宰治がベックリンのある絵画作品に感銘を受けていた」ということを知りました、と。
そして一度その絵を見てみたいと思い、色々探し回った結果その絵画作品を推測ではあるものの特定するに至りました、と。
そうすると、またそれとは別に、好きなミュージシャンであるジョン・レノンの最新リマスター版をいち早く購入し、特典として付いてきたポストカードに目をやりました、と。
すると、そのポストカードは、太宰が愛好したものと同じ(と先生が推測する)ベックリンの「あの絵」にジョンがコラージュを施した作品だったんです、と。
愛する太宰治と愛するジョン・レノンが、同じ絵を見て感動していた(かもしれない)という可能性に出くわして、とても興奮しましたよ、と。
そういう話をしていたんですね。
彼がそれを発見する以前に、その可能性を指摘した評論なり批評なりが存在していたのかどうかは定かではないので、それが新発見なのかどうかはわかりません。
ただ、このエピソードはのちに、芸能界に限りなく近い距離にいる教養人・山田五郎氏が美術を解説するYouTubeチャンネルとのコラボ企画として改めて追究されることになったのですが、彼としても初めて耳にする議論だったようなので本当に「新発見」である可能性はあります。
すこぶる文系な話題であることは間違いなく、おそらく面白く聞くことができるひとは限られているでしょう。
そこでぼくは切ない疑問に襲われました。
人気お笑いタレントでありながら芥川賞を獲り、実質的に純文学の業界に参入して8年も経過しているというのに、〈太宰治〉〈ジョン・レノン〉〈ベックリン〉をめぐる評論的な考察、あるいは批評的な考察を共有できる話し相手がいないというのは一体どういうことなんだ、と。
ご自身がそもそも文系的な感性を持っていて、その彼が世の中の「文系」を取り仕切る業界の人々とコミュニケーションをとる世界になった。自分の好きな分野の業界に辿り着いたわけです。
さぁて、これまで話が通じる相手もいなかったけど、これからはすこぶる自然に、すこぶる文系なネタをどんどん話せるぞー、と、氏だってわずかな期待を持っていたのではないでしょうか。
夢想でしかないけれど、ぼくならそう思っていたでしょう。
それにも関わらず「これは大発見だ!」と興奮したエピソードが「誰に話せばいいかわからない」なんてことになるなんて、なんとも本末転倒というか、とても残念というか、夢のない話というか、エッシャーのだまし絵みたいというか。
だって「又吉直樹」ですよ?
「芥川賞作家」ですよ?
そもそも芸人だって一応「文系」でしょ?
まぁ、文系の人間は文系の友達しかつくらないってわけじゃないのは勿論なんですけどね。
友達じゃなくても、出版界隈には編集者とか作家とかアーティストとかいろんな人がいるはずですから、少なくとも、趣味で読書をする人間すらほとんどいない下駄履きの生活者であるぼくの世界に比べればある程度マシなはずでしょう?
いわゆる「文系」の人たちは何のために、その「文化産業」を維持しようとしているんでしょうか。
それぞれがそれぞれの趣向に閉じこもり、相手が楽しめない話題を提供することにその場限りの申し訳なさを抱いてしまうような「文化産業」は、どこかで根本的な修正を迫られるような気がします。
それともそんなことは関係なく「人間社会ってそういうものなんだ」ってことなんでしょうか。
ちなみにこの『行き場のない話シリーズ』はとても穏やか、且つ、和やかな雰囲気でとてもいい感じです。
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