シェアハウス・ロック(or日録)0208
【Live】亙尾根亙窯跡3
通常、講座の終わりには質問タイムが設けられる。質問のなかに「この窯はどうやって発見されたのか」というものがあった。
講師は東京都埋蔵文化財センターの人で、昭和35年の調査に関わった方だった。その予備調査で多摩境の農家を訪れたときに、農家の水周りに亙のかけらが敷き詰められていたのを見たという話をされた。
つまり、私らが見学したあたりで亙のかけらが拾えるというのは周知のことであって、この例のように水周りに使ったり、砥石として使っていたのだそうだ。よって、「亙尾根」という呼称も、ごく一般に使われていたのだろう。
前回お話した『街道をゆく14』(司馬遼太郎)のエピソードも、亙を「砥石として使っていた」で思い出したものである。
前回のムチャぶりのすぐ後に、司馬遼太郎は、「焼物は江戸期では換金性の高い産業であり、藩窯の多い九州の諸大名などはそのおかげで世間から尊敬もされ、財政的にも悪くはなかった」と述べている。
奈良時代に国分寺の亙を担当するというのは、国家的なプロジェクトの一端を担うということだし、そこで培われた技術は、おそらく当時としては最先端だったのだろうと考えられる。奈良時代にこれだけ大きな産業が成立したのだし、そのノウハウは継承されたに違いない。
窯を運営した人たちは、おそらく租庸調の調扱いで、たいした稼ぎにはならなかっただろうけれども、その技術は伝承され、たぶん数百年は継承されたはずである。
ここからは妄想になるが、その技術で蓄積した財力が、鎌倉武士団の経済的な基盤を形成したのではないか。このあたりは、横山党の本拠地なのである。
貨幣経済が成立するのはもっと後のことになるが、それでも、私はこの妄想から逃れられない。
つまり、このあたりは先端技術を有した、豊かな土地だったはずなのだ。
経済が進展するに従って、逆に貧しい地域が増えるという逆説を、今回の講座では考えさせられてしまった。
今回の講座で、『テネシーワルツ』の一節、”Now I know just how much I have lost”を思い出した。訳すと、「どれだけのものを、(私は)失ってしまったか」になる。
前に一回だけ、多摩境駅(小山内裏公園の西側)のそばにはストーンサークルがあることをお話した。これも入れると、奈良時代どころか石器時代にまでタイムスケールは拡大する。
もうひとつ、東京都埋蔵文化財センターの方は、「こういう遺跡の一番いい保存方法は、埋め戻してしまうことです」とおっしゃっていたことを付け加えておきたい。