シェアハウス・ロック2412下旬投稿分
宇和島紀行談余1221
「宇和島紀行11127」に「前泊は日暮里」と書いた。その翌日は朝5時起きだが、それでも12時くらいまではとても寝られるものではない。幼稚園児じゃないんだからね。
で、ホテルに荷物を下し、散歩に出た。日暮里なんで、行先は谷中銀座である。ホテルからJRの駅を越え、少し下ったあたりが谷中銀座だ。私には馴染みの町である。夜は、さすがに人出が少ない。
「美濃部家の人々0927」で「お土産ものみたいなものを売っている小さなお店」と紹介したところまで来たが、閉まっている。ガラス戸から中を覗くと、どうも営業している気配はない。
「おじさん、死んじゃったのかな」と独り言を言ったら、その閉まった店の前で占いの辻店を出していた女性が、「改装して、別のお店をやるようですよ」と教えてくれる。
こういったところが、下町のいいところだ。人と人の距離が近い。
ちなみに、前述の「美濃部家」は美濃部孝蔵一家のことである。まあ、これでもわからないだろうな、普通は。美濃部孝蔵は古今亭志ん生さんの本名である。旗本の家系だという。
長男が金原亭馬生さん、次男が古今亭志ん朝さんで、長女の美濃部美津子さんがその店で働いていたのである。ご興味がおありなら、詳しい話は「美濃部家の人々0927」で。「シェアハウス・ロック2309後半投稿分」に入っている。そのお店の店主の方のセリフが、人情噺のようで、とてもいい。
「夕焼けだんだん」のあたりが谷中銀座のはずれになる。このときは反対側から行ったので、「夕焼けだんだん」から入り口あたりまで行ってから引き返した。
ああ、そうそう。『夢酔独言』(勝小吉)に、小吉の剣術仲間、不良仲間で美濃部大慶直胤というのが出てきたが、志ん生さんの曽祖父か、祖父か、その兄弟かなんかじゃないのかな。美濃部なんて姓は、そうそうあるもんじゃないだろう。まあ、それだけの話だけど。勝小吉は勝海舟の親父である。
私は谷中銀座は3年ぶりくらいだったのだが、相当店が変わっていた。これを書いている前日、巣鴨地蔵商店街に行った。ここも相当に店が変わっており、地上げが完了し、建設中のところが2か所あった。ちょっと前に書いた砂町銀座も、前回(3年くらい前かなあ)とは、だいぶお店が変わっていた。元気のいい商店街はそういうことなんだろうな。
谷中銀座を散歩した後は、谷中銀座の反対側の「馬賊」というラーメン屋でおとなしくラーメンその他を食い、酒を飲み、ホテルに戻り、おとなしく寝た。WiFiが通じることを確認し、ノートの投稿をしてから寝についたのである。
長々と書いたが、今回の話は「『八犬伝』1019」のシリーズ中に紹介した「『八犬伝談余』(内田魯庵)11025」の「談余」というのを一回やってみたかったからで、それだけの話である。
付き合わせちゃって、ゴメンね。
中山式快癒器1222
1年ほど前、愛用の中山式快癒器が壊れそうになった。エポキシ系樹脂と、100円ショップで売っているプラスチック製のまな板の、それも使用済みの廃品で補強し、だましだまし使っていたが、本格的に壊れそうになったのでネット通販で注文し、それが届いたその日に、完璧に壊れてしまった。なんだか、天寿をまっとうした気分である。
中山式快癒器は、プラスチックの台座に半球状の玉が配置され、それを布団等の上に置き、その上に横たわり、指圧効果を得るための器具だ。2球式と4球式がある。なんだかラジオみたいだね。3球式ラジオというのを、中学生のときにつくったな。
中山式快癒器との出会いは、はるか学齢前に遡る。少年雑誌の通販広告によってである。毎号掲載されていた。「この心地よさよ」というコピーがトップにあり、「使用前」「使用後」の写真があり、「使用後」にはなんだかたくましくなった男の人の上半身裸の写真があった。一見して、なんともいかがわしい感じがしたものである。少年雑誌に指圧器の広告が出ているというのも、相当の謎だけどね。
その中山式快癒器を自分でも使うようになったのは、27歳のときだ。ワタナベモトヒコさんという友人にもらったのである。2球式のものだった。
それをずっと使っていたわけだから、約50年使っていたことになる。だから今回購入したものは、私が125歳になっても使える計算になるが、中山式快癒器は使えても、私のほうが使えなくなっているだろう。
前のところで「いかがわしい」とは書いたが、広告はいかがわしかったものの、その効果はなかなかである。
寝るときにマクラの上に置き、ぼんのくぼの両側をこれで指圧する。そうしておいて本などを読んでいると、首の後ろの凝りがほぐれていき、眠りにつける。
だからこれがない旅先などでは、なかなか寝付けない。旅行鞄の底に潜ませ、旅行に行ったことすらある。
私は早熟だったので、小学4年生から肩こりが始まり、それ以降は首、背中などが一貫して凝っている。肩こり等がなくなれば、人生の苦痛の半分は解消するだろうと思う。まあ、たいした人生ではないということだな。
中山式快癒器の値段は2,500円だった。50年使えるので、1年間で50円。毎日使うんで、これだけコストパフォーマンスがいいものは、他にはまずあるまい。
Kさんの話1223
Kさんという人と仲良くなった。
通常は、マエダ、タカダなど、友人知人はカタカナで書くのだが、今回のお話は内容が微妙なので、Kさんとする。知り合ったきっかけも、仲良くなったきっかけも書くのは必要最低限にする。つまり、今回は、本人を特定できることは極力書かないようにしようと思う。
さて、Kさんとはあるライブで一緒になったのだが、「なんだかうるさい人がいるな」というのが第一印象だった。
その後、別のライブで、「なんだかうるさい人がいるな」と思い、「もしや」とご本人を確認しに行ったところ、それがKさんだったということがあった。
今回は、神奈川県のほうでやっていたライブ会場で会った。よく会うね。帰りが同じ方向なので、道々しゃべりながら帰ってきたのである。なんだか、それで急速に仲良くなった感じがする。
その会話のなかで、Kさんが前ブリもなく「今日は、赤穂浪士の命日ですね」と言って来た。12月14日だったのである。「吉良上野介とか、清水一角とかの命日ではあるけど、あいつらが切腹したのは、ずっと後だぞ」と私は応じた。「それもそうですね」とKさんは答えた。
当初、私はKさんを知的障碍のある人と見ていた。ところが、この会話から、そうじゃないんだと私は思い至ったのである。
たぶん、Kさんは発達障碍のある人なのである。
発達障碍では、ADHD(注意欠如/多動症)、ASD(自閉スペクトラム症)、LD(学習障害)などが知られているが、これは単純にそれぞれの症例がよく知られるということであって、これらのミックス状態の人もいるし、まだ知られていない障碍もあるはずである。
ADHDを、精神科医の司馬理英子という方が、著書中で「のび太・ジャイアン症候群」と呼んでいる。これは優れた命名で、授業中、先生の話を上の空で聞き、頭のなかではいろいろな想像をし、ぼんやりしているように見え、宿題などの忘れ物が多いのび太は「注意欠如」型の特性が強いと考えられ、一方じっとしていることが苦手で、すぐにキレて乱暴するジャイアンは、「多動性」「衝動性」の特性が強いと考えられる。
ASDは、かつて自閉症と呼ばれたものである。これは、映画『マーキュリー・ライジング』をご覧いただくのが手っ取り早い。ブルース・ウィルス主演で、自閉症と、よく併存するサヴァン症候群をよくとらえ、また映画としても面白く、自閉症児役の坊やが可愛い。ラストシーンは、ちょっと泣かせる。
また、症例として、「限定された反復する様式の行動、興味、活動」がよく挙げられ、この「行動」で「なんだかうるさい人がいるな」になり、また「興味」で3回連続で私と会ったりするわけである。私も、うるさくはないが、ASDかもしれない。
「スペクトラム(spectrum)」の訳語は「連続体」であり、光学や物理学の用語だ。これについては申しあげたいことがあるので、次回。
なお、今回の最後に、アクロニムのフルバージョンを掲げておく。私の頭では、フルバージョンを知らないと、そのアクロニムがなかなかおぼえられないのである。
・ADHD:Attention Deficit Hyperactivity Disorder
・ASD:Autism Spectrum Disorder
・LD:Learnibg Disability
スペクトラムとしての人間1224
スペクトラムを理解するには、光をプリズムで分光してみるのが早い。虹の七色みたいなものが見える。あれが光の「成分」である。
七色とは言っても、あれを七色にとらえるのは、必ずしも全人類共通ではないようだ。
民族によっては、あれを五色にとらえたり、八色にとらえたり、極端には三色にとらえたりする人々がいる。これは、少年雑誌によく出ていた「世界豆知識」みたいなお話だが、今回の本論に接続する。つまり、前回お話しした「連続体」なので、八色に見えたり、三色に見えたりするわけである。ここでは、文化がバイアスになるんだろうと思う。
だから、前回お話ししたようなことも、「ハイ、こっから異常」「あんたは正常」みたいにキッパリと分かれるわけではなく、境界にはグレーゾーンがあるし、「正常」のなかにさえグレーがあるように見えることすらある。
三原色には、光の三原色と絵具の三原色がある。前者はR(レッド)G(グリーン)B(ブルー)であり、全部混ぜると白になり、加算混合と呼ばれる。後者はY(イエロー)М(マゼンタ)C(シアン)で減算混合と呼ばれ、全部混ぜると黒になる。
加算混合にしても、減算混合にしても、三つの色でどんな色でもつくれる。これを逆に言えば、単に比の問題なので、色数は無限、かつ連続体となる。
色の話が出たついでに言うと、私は色盲(いまは、色神異常とか、色覚障害とか呼ぶことのほうが多い)であるが、これにしても、色がわからないというよりも(わかることはわかるからね、私)、色のもうひとつの要素、色相、明度、彩度に関連する「異常」であると、私は理解している。
つまり、通常の人が色相、明度、彩度の順で色をとらえるところ、私のような人間は、たとえば、明度、色相、彩度といった順で色をとらえるようだ。これが、異常の根源であると、私は考えている。
だから、色覚関連で言われる異常、正常というのは、健常者の方々が考える以上に奥が深いし、その奥の深さは人間という存在自体の奥の深さをも連想させるところがある。このあたりは、自分が色盲に生まれてよかったと思うところだ。健常者だったら、こんなことはまったく考えないだろう。
だが、ここにも、スペクトラム的なことがあり、色がまったくわからない人もいるようだし、特定の色だけよくわからないという人もいるようだ。
もっとも、受光器そのものの異常ということもある。赤、緑、青を認識する3種類の錐体に異常があるということである。だが、これはハードウェアの故障であり、それとは別のソフトウェアによる異常というものもあるに違いないと、私は確信している。だって、私は、赤、緑、青は識別できるからね。
以前、サヴァン症候群のことを書いたことがあるが、異常というのは、健常、さらに言えば、人間という存在をとらえるためのインジケーターとして機能すると私は考えており、そういう方向の考え方が好きである。
もうひとつの「異常」1225
もうひとつの「異常」は、学習障害(LD:Learnibg Disability)である。
タイプは以下の3つ。
・ディスレクシア 読字障害:読むことが困難
・ディスグラフィア 書字障害:書くことが困難
・ディスカリキュリア 算数障害:計算することが困難
これにしても、ハードウェア的な欠陥によるものがあり、ソフトウェア的な欠陥によるものもあるように思えるし、双方に欠陥がなくとも、「手続き的」な欠陥によるものもあるように、私には思える。
オリバー・サックスの著書は、こういった欠陥のオンパレードで、とても興味深いのだが、そのなかに「失語症」ならぬ「失意味症」の症例を扱ったものがある。『妻を帽子とまちがえた男』である。
彼は、サックス(神経科医)の診察が終わり、診察室を去ろうとしたときに、なんと奥さんを(帽子のように)被ろうとした(!)というのである。つまり、帽子という「語」はわかるにしても、その意味、その像がわからないことになる。ここでは、像が意味そのものである。
人間の脳の不思議さは、こういった「症例」から逆に照射されるという気さえする。
私の友人は、50代で脳出血を起こし、一命はとりとめたものの、それからしゃべれなくなってしまった。こちらの言っていることはわかる。「そう」「違う」は言えるので、それらの反応からそれがわかる。だが、それ以上のことはほとんどしゃべれなくなった。これは、明らかにハードウェアの欠陥であるし、「考えること」と「話すこと」の間のどこかの回路が遮断されているのだろうと思える。
だいぶ前に、ディスレクシアは、アルファベットを使う地域で症例数が多く、日本などでは少ないと聞いたことがある。これが本当であれば、言語(というか文字)の逐次処理を司るどこかに問題があると考えるのが妥当である。漢字は一時に入って来るので、発見例が少なくなるのだろうと想像できるからだ。これは前のところで申しあげた「手続き」的な問題と考えていいはずである。
私も、若干(か、相当か)ディスレクシアの傾向がある。特にカタカナ表記で、意味がたどれないものが苦手である。「ヒマラヤ」なんだか、「ヒラマヤ」なんだか、長い間わからなかった。「エベレスト」なんだか「エレベスト」なんだかもわからなかった。後者は、英語の語感が身についたあたりで解消したが、前者はいまだに自信がない。これは、「意味」とか「語感」が「読字」を補佐しているということなんだろうと思われる。
2回前に、
私の頭では、フルバージョンを知らないと、そのアクロニムがなかなかおぼえられないのである。
と書いたが、これも私が「若干(か、相当か)ディスレクシア」であることと関連しているのではないかと考えている。
オーラルは論理を扱えるのか1226
前回を書くに際して確認したネットのひとつに、ディスレクシアに関する次の記述があった。
でも、理解力はあるので、試験問題を読んでもらって耳で聞けば答えられるというケースもあります。
今回は、これについて考えたことである。
上記引用のようなことはあるかもしれない。ところが、前述の記述のすぐ上には、このことの理由を述べたと思われるものがあった。
読み書き障害の背景には、表記された文字を対応する音に置き換える脳の働きがうまくいかないことがあります。
これは私には納得できないことである。もっとも、この文脈は、「子どものディスレクシア」を述べたようにとれなくもないので、それであれば、やや納得はできる。
このあたりは、とても説明がむずかしい。
子どもの例でお話する。
ひらがな、カタカナをおぼえたての子どもは、音読しかできない。それも「ク、マ、チ、ャ、ン、ガ」みたいに一音一音区切ってしか読めず、発語もそうなる。それが、「クマちゃんが」と読めるようになり、そうなってから、音読から黙読に進む。
黙読も、当初は頭のなかでは音が響いているはずだ。ところが、黙読も熟練するに従い、頭のなかの音は消え、「視読」と呼びたい段階になる。頭のなかで音は必ずしも響かず、文節、句、短いものなら文を一単位にして読むようになる。「視読」は誰かが言っているとは思うが、とりあえず私の造語である。
上記ふたつの引用は、こういった過程と、そういった過程を経た後でも起こるディスレクシアを考慮していないと思われてならない。ただ、前述したように、子どものディスレクシアに範囲を限定すれば、それはその通りなのだろう。
ふたつの引用の前者で私が感じたことは、表題のように「オーラルは論理を扱えるのか」である。
私はずっと、オーラルは論理を伝えられない、少なくとも、論理を伝えるにはあまり適さないと考えてきた。
だが、これにしても、別の考えもある。
ある著者のあることに関する著作を読んでもあまり理解できたとは思えず、その著者による同じテーマの講演を聞き、「理解できた気になった」こともあるし、逆に、講演を聞いても理解できず、著作で理解できたこともある。
このあたりは、人間の「理解」を巡る、とてもおもしろいところである。キーワードはふたつ。
ひとつは、「理解できた気になる」であり、もうひとつは「速度」にまつわることである。
「理解できた気になる」は結構深いものがあるので、次回は、「速度」にまつわるお話をしようと思う。
ガタンゴトン1227
止まっている電車が動き出す。それをオノマトペで表現すると、ガッタン、ゴットンになる。ちょっと速くなると句点が抜け、ガッタンゴットンになる。さらに速くなると、促音が抜け、ガタンゴトンガタンゴトンになる。もっと速くなると撥音も抜け、ガタゴトガタゴトになる。
問題はここからである。
ある速度に達すると、ガタンゴトンガタンゴトンが前後入れ替わり、ゴトンガタンゴトンガタンになる。ガタゴトガタゴトに達してから入れ替わるときは、ゴトガタゴトガタになる。
このことを人に話すのは、これが初めてである。こんな風に聞こえるのは私だけかもしれないと思って、今まで誰にも話さなかった。
この切り替えが、少年時代の私には不思議だった。75歳になるいまでも不思議である。
この謎を誰かが解明してくれるのではないかと、私は70年以上待ったが、いまだに誰も解明してくれない。もっとも、浅学非才の私の手の届かないところでは、誰かが解明しているのかもしれない。もうひとつには、こんなこと、誰も気にしていないということがあるのかもしれない。
たぶん同根であると思われる、もうひとつの例を述べる。
映画で、車を追うシーンがある。カーチェイスではなく、発車する一台の車を追うシーンである。当初、車輪のスポーク(リムというのかもしれない)は前方、すなわち車の進行方向に回っているのがわかる。ところがある速度に達すると、スポークは映画のなかでは逆方向に回るのである。速度を落とすシーンでは、その逆になる。
これは、ガタンゴトンと同じ原理なのではないだろうか。
映画のほうは、比較的簡単である。動画では、1秒間に30コマなり、24コマなりを撮り、それを連続することによって動きを得る。この速度と車のスポークの速度が干渉し、フリッカーのような現象が起こると考えるのが妥当だと思う。
もしこの推測があたっているとすると、次のことが考えられる。
コンピュータには、クロック周波数というものがある。諸元には必ず、nMHzなどと書かれているはずである。これが速いと、コンピュータも速いと思っていい。コンピュータ内部で複数の電子回路が信号を送受信するタイミングを揃えるためのものである。
映画でのコマ数と、人間の頭のなかのクロック周波数(あるんであれば。だが、似たようなものはあるはずである)の影響で、ガタンゴトン現象が起こるのではないかというのが、いま、私の考えていることである。本当かどうかは、わからない。
前回、
著作を読んでもあまり理解できたとは思えず、その著者による同じテーマの講演を聞き、「理解できた気になった」こともある
と申しあげたが、これも速度と関連するのかもしれない。通常、遅いほうが理解しやすいが、今回はその逆のお話を。
『選択本願念仏集』(法然)は、何べんもトライするのだが、途中ではじかれて(理解が追いつかなくなって)放棄してしまう。もう、4、5回途中放棄が続き、最後まで読めない。
あるとき、ふと思いついて、意識的に速く読んでみた。その時も結局はじかれてしまったのだが、それでも最長不倒距離は出せた。速く読むとかえって理解できる場合があるということなんだろう。
もしこれが本当なら、人間の頭というのは相当に不思議な器官である。
再び、オーラルは論理を扱えるのか1228
前々回、
私はずっと、オーラルは論理を伝えられない、少なくとも、論理を伝えるにはあまり適さないと考えてきた。
と書いたが、今回はその補説である。
『人は見た目が9割』(竹内一郎、新潮新書)という本がある。
この本は、アルバート・メラビアンの提唱が基になっており、彼によれば、コミュニケーションにおいては、非言語的要素が大きなウェイトを占めており、話者に対する好感度や信頼感は、主に見た目や態度、声のトーンなど、言葉以外の要素で決まるという。
私が問題にしているのは論理であり、ここで言われているのは好感度や信頼感である。だから、当然イコールではない。
朗読の専門家である我が畏友その2は、言語要素よりも、エロキューション、アーティキュレーションなどのほうが、人に同意させるためには有効であると考えている。たとえば、立花孝志などは、その話の内容よりも、これらの非言語的要素が彼のしゃべっていることにおいては有効な働きをしていると、我が畏友その2は考えているようだ。
このあたりから私が問題にしていることと、メラビアンの提唱は、だいぶ重なってくる。
さて、上述の言語要素、非言語的要素をより詳しく見ていくと、人は言語情報(Verbal)から7%、聴覚情報(Vocal)から38%、視覚情報(Visual)から55%のウェイトで影響を受けることになるという。ここでの聴覚情報には、当然エロキューション、アーティキュレーションなども含まれているし、言語情報にも若干はそれが浸潤しているだろう。
そうすると、「人は見た目が9割」が、どう控えめに考えても結論になる。オーラルでは、論理、論旨のようなものは1割も伝えられないことになってしまう。
つまり、「オーラルは論理を伝えられない」は多少言い過ぎであるとしても、「少なくとも、論理を伝えるにはあまり適さない」はおそらく正解になるのではないか。
そういうことを前提にしたときに、私が懸念するのは、YouTubeの動画によって情報を得ている人たちである。そういう人たちが相当いると思う。いままでお話ししてきたように、動画では、論理、論旨のようなものはせいぜい1割程度しか伝わっていないはずであり、そこが問題に思えるのである。
つい最近、アマゾンプライムで見ていたアメリカのテレビ映画で、「昔は差違を議論で解消していた。いまは、その代わりに、ネットで憎悪を増幅している」と嘆くシーンがあった。発言者は、少なくとも私より30歳は若い。もっとも、この台詞(シナリオ)を書いた人の年齢はわからない。
論理には同意、同調ができ、それによって連帯もできるが、情緒では連帯はできない。もし「できる」という人がいたとしても、「その連帯」はダメだと思う。それは途轍もなく危険なことのような気がする。
私は、情緒を点検できるものは唯一論理なのではないかと思っている。
サンタクロースは来ましたか?1229
めいちゃん、サンタクロースさんはきましたか?
我が孫、小学2年生のめいちゃんに書いているつもりになっているので、全部かなになった。
12月14日にめいちゃんの小学校の学芸会があり、私にも声がかかったので当然行った。演目は、『からすのパンやさん』(かこさとし)である。めいちゃんは、パン屋さんのお母さん役をやった。ただし、このごろは集団劇にするので、one of お母さんである。
めいちゃんの母親(つまり、我が長女)も『からすのパンやさん』が好きだった。絵本を、数十回は読んでやった。よって、親子三代『からすのパンやさん』である。なんとなく嬉しい。
めいちゃんの出る演目は初っ端だったので終了後いったん帰り、家でめいちゃんの帰りを待つことになった。そこで発見したのが次の手紙である。
すいません。ワイヤーレスのミントいろのヘッドフォンとたのんだ2こと、こうかんいただけないでしょうか。
これだけでは、「なにを」「なにに」がよくわからない。「たのんだ2こ」をボツにして、「ワイヤーレスのミントいろのヘッドフォン」をくださいと言っているのだろうか。別の紙に追記があった。
こどもようののびちぢみするやつ。
「ワイヤーレスのミントいろのヘッドフォン」の「のびちぢみするやつ」がほしいのだろうか。自分の思いを書くのが精いっぱいで、自分の書いた文章を客観視する視線がまだない。でも可愛い。
我が長女の解説で私はやっとわかったのだが、サンタクロースさんにもわかったに違いない。ちゃんと持って来たんだろうな。おい、サンタクロース!
クリスマス・オラトリオが入っているので、朝のコーヒータイムにはクリスマスまで『Mera Sings Bach』(米良美一/バッハ・コレギウム・ジャパン)を聴くと書いたが(「クリスマス・オラトリオ(BWV248)1217」)、26日の朝は『ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ』(川本嘉子/中野振一郎)を聴いた。これは、『チェロ・ソナタ』として知られているものである。
川本嘉子さんはヴィオラなので、チェロよりも1オクターブ高くなる。チェロだと振動数が半分なのでヴィオラと比べると必然的に制御が遅くなり、重厚という感じになるのだが、その分ヴィオラだと軽快である。これもなかなかいい。
宮本信子さんも、『チェロ・ソナタ』をやっているのだろうか。宮本信子さんに、『無伴奏チェロ組曲』をヴィオラで弾いたアルバムがあるが、これも名盤である。
以前、パブロ・カザルスの『無伴奏チェロ組曲』はあまりよくないと書いたが、カザルスの『チェロ・ソナタ』はいい。特に、全曲は演奏していないものの、『ホワイトハウス・コンサート』のそれは絶品である。ホワイトハウスとは言っても、J.F.ケネディ時代だ。
オバマになると、ホワイトハウス・コンサートは、ブルースとかそんなのが多くなったが、あれもいい。YouTubeにいっぱいあげられている。そのなかに、『スィートホーム・シカゴ』をオバマが1コーラス歌っている(歌わされている?)のもある。たしか、あの人はシカゴ出身である。
トランプは、音楽なんか好きじゃないんだろうな。たぶん、そうだな。音楽が好きな人間は、ああはならない。音楽を聴く耳を持つと同時に、自動的に人の言うことも聞く耳を持つ。
我が国の石破茂がカラオケで歌うのは(ナマで見たことがある!)、乃木坂なんとかとか、だいたいあんなもので、困ったものである。
音痴について1230
立呼出しの次郎さんが、初場所だかに定年退職するらしい。それはそれとして、どうもこの人は音痴らしい。
ちょっと前に、発達障害について何回か書いた。これは、発達障害を考えることで、人間の脳がわかるようになるのではないかと、私は考えているからだ。精神病への興味も、サヴァン症候群への興味も同様。特異点を理解することで、「通常」を理解できるようになるのではないかと考えるからである。「通常」より特異点のほうがわかりやすい。それが手掛かりになるのではないかということである。
音痴についての興味も同様である。
よく、カラオケなどで、「私は音痴なんで…」などと言い訳をする人がいる。こういう人は思いあがっているだけであって、だいたい音痴でもなんでもない。ただ、単に歌が下手なだけである。音痴は、こういう人が考えるよりもずっと奥が深い。
色盲の研究はそれなりに進んでいる。精神病、発達障害に関してはもっと進んでいる。だが、音痴の研究はあまり聞いたことがない。音痴で困る人はあまりいないからだろう。ただ、周りの人が困ることはある(笑)。
さて、音痴である。
それも、とりあえずは邦楽における音痴問題である。次郎さんも、音楽ではないかもしれないが、呼出しにもメロディはあり、あれは譜面に書ける。あれを邦楽の一種と言っても、それほど見当外れでもないだろう。
実は、文楽の太夫さんにもお一方、音痴の人がいる。お名前は出さないが、数人で、ギリシャ悲劇のコロスにように語るところでそれが判明する。その人だけ、なんだかメロディラインがおかしい。
ただ、浄瑠璃は謡うところもあるが、基本「語り」であるし、厳密に言えば音楽ではないような気もする。浄瑠璃語りとは言うが、浄瑠璃歌いとは言わないし。浪花節も語りだな。
だから、浄瑠璃では、音痴でも差し支えないのかもしれない。事実、その人はずっと太夫さんをやっているし、うまくなってもいる。でも、浄瑠璃節とは言うもんなあ。「節」はメロディだろう。こうなると、私にはよくわからない。
これで、民謡をやる人なんかに音痴がいれば、もっとわかりやすいんだけど、さすがにそれはいないようだ。
昔々、大がひとつでは足らない大親友のタダオちゃんの子どもたちがお囃子を習い始め、下の女の子は三味線も習うことになった。教則本と三味線があったので、遊びに行ったときに貸してもらい、弾いてみたのだが、その教則本には、「三の糸は低からず、高からず合わせる」と、ヘンなことが書いてあった。これではわからないのでしばらく読み進めていくと、「ピアノで言えば『ラ』の音」と書いてあった。先に言ってくれよな。
西洋音楽では、ハ長調の『ラ』は440Hzで、これは天地がひっくり返っても「低からず、高からず」には絶対にならない。邦楽は、音痴に寛容なのかねえ。
そう言えば、ロナルド・マクリーンという知人は、音痴だったが、日本に琵琶を習いに来ていたっけ。彼の琵琶習得はなんとかなったのだろうか。
音痴の研究1231
音痴は俗称で、「学術的」には先天的音楽機能不全というそうだ。「学術方面」には暇な人がいると見える。まあ、私も暇なんだけどね。大晦日でも暇。この世になーんの用もない老人である。能もないぞ。用もなければ能もない。
ところで、音痴には、俗に耳音痴というのと、喉音痴というのがある。喉音痴は訓練によって治る。だが、耳音痴というのは相当に治りにくいようだ。
音の高低は、内耳にある蝸牛管という器官で電気信号に変換され、脳に送られるという。ここでの受感か、その後の変換か、脳か、いずれかのひとつでも問題があると音痴になる。これが耳音痴である。問題個所が複数ということだってあるはずだ。
ただ、この音痴には程度があり、軽音痴、重音痴、絶対音痴というものが知られている。知られていると言っても、いまのところ私が知っているだけだ。
また、相対音痴という不思議な音痴もある。
この不思議な音痴の代表選手が、以前一回お話ししたフローレンス・フォスター・ジェンキンスという人だ。この人はお金持ちの奥さんで、とてもいい人だったらしい。カーネギーホールでもリサイタルをやっている。満杯にしたらしい。レコードも出した。私も2枚持っている。
この人はオペラの曲やクラシックの歌曲を歌う。声もいい。彼女は、たとえば8小節を破綻なく歌う。それで油断していると、次の瞬間、たとえば完全3度くらいずれる。ずれた後での音程は合っている。このタイミング、外し具合が絶妙である。狙ってこれをやっているとしたら、大天才だな。だから、ファンも多かった。
軽音痴は割合多い。有名人で言うと、ディック・ミネなんていう人はこれに含まれると思う。『上海リル』という持ち歌で、ジャズやブルースなんかでいうブルーノートを完全に外している。後年の録音では特にそうだ。だが、今回YouTubeでチェックした若いころのものでは、巧みにごまかしてはいる。
ただ、ブルーノートを外しているだけで音痴は可哀そうかもしれない。アメリカに無理やり連れて来られ、それまでペンタトニックの音楽しか知らなかった黒人奴隷が讃美歌等々を聞き、ふたつの音階が衝突してできたのがブルーノートだからだ。だから、西洋音階からみたら、ブルーノートのほうが「音痴」になる。日本でも、陰旋律、陽旋律などの音階に親しんだ私の母の世代には、この種の「音痴」が多かった。
このあたりは文化人類学の知見、ある文化と他の文化で優劣をつけるのは間違いということを思い出したほうがいい。
田谷力三も疑わしい。この人は、たとえば「あーー」と歌うところで、「あ」「ー」「ー」の音程が変わる。この三つのどれかが合っているという惨状である。ただ、今回チェックしたWikipediaには「東京大空襲で身体を壊し、一時歌声を失うものの、必死のリハビリで1948年(昭和23年)に復帰」という記述があったので、音痴と言うのは可哀そうで、リハビリが完全ではなかっただけなのかもしれない。「リハビリ不全」であれば、前述のカテゴリーでは、喉音痴の分類になる。
亡くなった方の話ばっかりしているが、現役の方々にも、この軽音痴の人はたくさんいる。でも、差しさわりがありそうだし、営業妨害になってもいけないので言わないだけである。
絶対音痴というのは、私、ひとりだけ知っている。中学2、3年で同級生だったホドヅカくんである。音楽の試験では単独で歌わされることがあるのだが、始めから終わりまで彼は壊滅的に音程が合わない。でも、歌うときに彼なりには音程を変えているので、歌というのはどういうものかは理解しているのだろう。
ホドヅカくんの頭をかち割って調べれば、音痴学には相当の貢献になるはずだ。あの頭をみすみす死なせてしまうのは惜しい。
彼が歌うのを聞いていると、抽象音楽というか、スーパーアヴァンギャルドというか、なにか別の価値観を認めたくなってしまう。本人は、それでも恥ずかしがる様子もなく、ケロッとしていたので、あれは本物なのだろう。
【追記】
明日から、タイトルに「日記」というのを足し、「シェアハウス・ロック(or日記)日付」に変更する。
一年半も毎日投稿しておいてうかつにもほどがあるが、『シェアハウス・ロック』では、なにがなんだかわからないだろうということに気がついた。だいたい、元ネタの『ジェイルハウス・ロック(監獄ロック)』も知らない人が大半だろうし。
では、来年。