シェアハウス・ロック2409初旬投稿分

オーラルとリテラル10901
 
 2回前に、「落語は、原則、師匠から弟子への口移しである。現在はどうなのかは、実際のところ知らない」と書いた。この前提にあるのは、古今亭志ん朝さんの本にあった話である。志ん朝さんが、まだ若いころ、テープでおぼえた噺を高座にかけたところ、楽屋に引っ込んだときにうるさ型の師匠から、「あんちゃん、あの噺は誰におせえてもらったんだい」と嫌味を言われたという。
 この話から、ふたつのことがわかる。ひとつは、そのころまでは、師匠から口移しで教えてもらった噺しか高座にはかけられなかったことである。
 もうひとつは、このあたり、つまり志ん朝さんの二つ目時代あたりが端境期だったのではないかということである。で、2回前に「現在はどうなのかは、実際のところ知らない」と書いたわけだ。
 稽古のやり方は、師匠によって様々だったのだろうが、割合多かったのが、師匠がかしこまっている弟子の前で一回やり、それからすぐに弟子にやらせるというスタイルである。なにかでこれを読んで、意外だったことをおぼえている。
 弟子が間違えたり、詰まったりすると、ある師匠は聞きながら食べていた煎り豆を投げつけたという。
 ここまででわかることは、弟子はまず筋書きをおぼえ、そしてその場で噺の肉付けをすることをもおぼえさせられたのではないかということである。一回では、筋書きをおぼえるのがやっとだろう。私の頭ではそうだ。
 つまり、古事記を完全に暗記していたと思われる稗田阿礼的なおぼえ方をするのではなく、とりあえず筋書きをまずおぼえるというおぼえ方が落語のおぼえ方なのではないだろうか。
 ちょっと余談をすると、私は、稗田阿礼という人は何人もいたのではないかと思っている。あっ、これは素人が勝手に言っていることなんで、そのおつもりで。つまり、稗田一族というのがいて、代々出来のいい子どもに『古事記』を暗唱させ、代々伝えていったのではないか。そして、何代目かの稗田阿礼が誦するところを詔により太安万侶が筆録し、それがリテラルの『古事記』となったのではないか。
 繰り返しになるが、素人の想像なので、あまり本気になさらないよう。
 オーラル的な伝承と、リテラルを介した伝わり方との最大の違いは、音そのもののオリジナリティが保存されているか否かにある。
 オーラルをリテラルにした瞬間に、かなりの情報が脱落する。まず、時間性が脱落する。オーラルなら高さ、低さ、早さ、遅さ、強さ、弱さ、音色などの情報を含むが、それらが全部脱落する。たとえば、高さ、低さの複合であるイントネーションも脱落する。
 だから、口伝えでないと、なにか大事なものが脱落するのではないかという気はする。だが、実際はどうなのだろう。
 現在、落語で「生きている演目」はおそらく百幾つといったところだろうか。
 三遊亭円窓という人は、「五百噺」と称して埋もれた噺を発掘することに力を注いだ。つまり、いままでの文脈から言えば、オーラルの伝承がまったく途絶え、リテラルでしか残ってないものを、再オーラル化しようという試みである。これはこれで、なんとかなるような気はする。
 でも、やはり、なにかは脱落しているのではないかという気もするのである。

 
オーラルとリテラル20902

 前回、「オーラル的な伝承」という言い方をした。これは、正気な言い方なら「口承」になるのだろう。オーラルとリテラルを対比的に言いたくてそういうふうに言ったのだが、別のところでは「口伝え」と言っている。
 ただ、落語で「口伝え」もちょっと違うような気がする。
「口立て」という言葉を思い出した。口立ての例を示す。これは、昔、私の友人から聞いた話である。彼は、どこでこんな話を仕入れたのだろうか。

 山道を娘歩いている。雲助が二人出て来て、娘に「○○○させ」言うて、立ちふさがる。娘「いやや」言うてかぶり振る。娘逃げる。それを追いかける雲助の前に勤王の志士が現れ…

 ○○○は関西弁で、放送禁止用語である。大衆演劇では、こんな口立てで、一時間やそこらの劇を仕立ててしまうという。もちろん定型があり、それに沿い、見得を切ったり、殺陣をやったりして時間を稼ぐにしても、たいしたものである。
 ここまでを改めて文章化すると、「大衆演劇には台本がなく、座長が口立てで粗筋を述べ、それだけで本番にはいる」ということになる。
 落語でも、口立てというのだろうか。
 ただ、口立てというのは、どうも前提に文字があるような気がしてならない。つまり、本来的には文字でやるべきところを口頭で済ますといったニュアンスである気がしてしかたがない。
 落語の話に戻る。
 誰だったか完璧に忘れているが、「私らは、師匠から口移しで噺を教わった」というのを、しかるべき人が言っていたのを聞いた記憶はある。むろん、直接ではない。ラジオだったか、テレビだったかで聞いた記憶である。春風亭柳朝だったような気がする。
 ラジオの話が出たので、ついでに申しあげておく。
 私がラジオをよく聞いていたころ、1955年あたりから1960年過ぎまで、落語はラジオのメイン・コンテンツだった。いま考えると非常に贅沢な話だが、古今亭志ん生(五代目)、桂文楽(八代目)、三遊亭円生(六代目)、三笑亭可楽(八代目)、柳家小さん(五代目)、林家正蔵(八代目)などが毎日のように聞けたのである。
 ただ、欠陥もあった。だいたいが30分番組であり、そこで二席である。東京放送(後のTBS)、文化放送、ニッポン放送だとコマーシャルも入る。よって、一席が12~13分程度になってしまう。けっこうせわしないし、けっこう端折った噺になってしまう。でも、私は、落語の基礎知識みたいなものはラジオから得たのである。寄席に行くようになるのはもっと後だし、ホール落語はさらに後のことである。

 
音声と文字0903

 畏友その2が、あるとき、「アナウンサーとか、新劇の俳優の日本語は気持ち悪い」と言ったことがある。これは、一度書いた。
 今回は、オーラルとリテラルをちょっとだけ離れる。でも、オーラルとリテラルでないこともない。なに言ってんだかわからないでしょ? でも、なに言ってんだかわからない程度にしか離れない。
 さて、まず初めに音声があった。言(ことば)じゃなくね。言葉になったのはずっと後である。
 これは無文字文化を考え、無文字期というものを考えればいい。文字が登場したのは音声、言葉のずっと後である。山勘で言うと、数十万年くらい後。最初は文字じゃなくて、絵だったんだろうな。いまとなってはもうわからないけれども、いずれ、絵と文字の間のミッシング・リンクみたいなものが発見されるかもしれない。ちょっとそう想像するとワクワクする。ヒエログリフはそれに近いが、あれは表象的には絵だけど、機能的には文字であるようだ。
 さて、音声である。音韻とか分節とかいろんな言い方があるけど、それも端折って、とりあえず「音声」としておく。この音声に対応して「文字」が生まれた。この議論も雑であるが、全体が雑なので、この議論の雑さ加減は誤差の範囲である。
 この「音声」と「文字」の関係は、音楽と楽譜の関係とほぼ同じと考えていい。
 上述の「気持ち悪さ」は、楽譜通りに演奏することによって生ずる「気持ち悪さ」に通底する。よく、というか一般的にバロック期の音楽は、ロマン派的な解釈が紛れ込まないので、かなり正確に楽譜通りの演奏をすると思われがちである。
 昔、「音楽とコンピュータ」みたいなムックをつくったことがあった。そのときに、いま言った俗説みたいなものが本当かどうかを調べてみた。著者の主張上、どうしてもそれが必要だったのである。オプティカル・トーキーというものを使った。これは、映画フイルムの画像の横に、光学的に音を記録するものである。光学的な記録だから、厳密に計測できることになる。
 音源は、オーレル・ニコレの『フルート・ソナタ』(J.S.バッハ)である。「無伴奏ヴァイオリン」とか「無伴奏チェロ」とかもあるけど、重音の可能性があるからね。フルートなら、どうやったって単音だろう。一部分完全にソロになるところがあるので、そこを使ったわけであった。16分音符が連続するその部分で、倍はオーバーだが、倍近く長くなっているところがずいぶんあった。ところが、耳で聴くと、そうは聴こえないし、違和感もまったく感じない。つまり言いたいことは、楽譜通り「正確に」弾くと(吹くと、か)相当ヘンテコなことになり、それは「気持ち悪い」ことになるのではないかということである。
 畏友その2が言った「アナウンサーとか、新劇の俳優の日本語は気持ち悪い」という発言は、同様に、「音声」から多くのものが脱落してしまっている「文字」を無反省に「音声」化し、さらにそれが「音声」であると信じて疑わない夜郎自大と、その結果の「音声」そのものに根差しているのだろう。
 一言加えておくと、畏友その2は、いまは朗読の専門家である。
 次回は、「音声」そのものと、「かな」の関係についてお話しするつもりである。

「かな」と「音声」は双方向ではない0904

「音声」→「かな」は言えるが、「かな」→「音声」は言えない。つまり、「かな」と「音声」は、本来、片方向(「音声」→「かな」)にしか変換できない。ちょっと不正確な比喩だが、「音声」はアナログで、「かな」はデジタルだからだ。つまり、「音声」を「かな」化する段階で、多くの「情報」が脱落する。この「情報」は情報理論的な「情報」である。シグナル(信号)に含まれるノイズとお考えいただいてもいい。
 例として、鼻濁音を挙げる。鼻濁音のない地方もあるらしい。そういう地方の人にとっては、鼻濁音は一般的な日本人が聞き分けられないrとlの違いのようなもので、説明が難しいが、古今亭志ん朝さんあたりの落語をお聴きくださいと申しあげておく。鼻濁音がわかる前提で、お話を進める。
 鼻濁音になるのは「ガ」行である。「我が強い」と言うとき、初めの「が」は濁音だが、次の助詞の「が」は鼻濁音になる。
 知ったかぶりをしているが、実は私にもいまいちわからないところがある。
 1970年ごろ、なんのテレビCMだったか、店番の老人のところへ人が来て、老人が「外人かぁ」と言うものがあった。数回見ている。この老人のセリフの外人の「が」が鼻濁音だった。私の知っている範囲では、語頭に来る「が」は普通の濁音で、語中に来る「が」が鼻濁音になるという印象があったので、このCMをいまだにおぼえているのである。
 子どものころ、母親に、「その『が』は違う」とよく注意された。いい加減に聞いていたので、私はいまいち、いまだにどういう場合に鼻濁音になり、どういう場合にならないのかが正確にはわからないままだ。親の言うことは聞くもんだというが、これに関してはまったくそのとおりである。
 サンプルが少ないにもほどがあるが、私の母親の世代くらいは、濁音と鼻濁音をきちんと、適材適所みたいに使っていたのだろうか。
 一時期、なんで読んだかは完全に忘れているが、「か」の「点」を「゜」にして鼻濁音を表すものがあった。「一時期」と書いたが、ほんとに一時期かどうかもよくわからない。たまたま、その本がそうだっただけなのかもしれない。でも、記憶では何回もこれを見ている。この例は冒頭で申しあげた、脱落した「情報」を復活させようという試みととれる。
 これも、なんで読んだかは忘れたが、江戸弁を表現するところで、「きれいに鼻濁音を響かせた江戸弁」という記述を読んだことがある。
 ここまで書いてきて、いまどうなっているのかちょっと確かめてみようと、ネットで調べてみた。声優養成講座みたいなところで、「語頭は濁音、語中は鼻濁音」というのがあった。基本的にはそうだが、ちょっと疑わしい。
 そのすぐ後で、外来語は鼻濁音にならないと書いてあった。そうかなあ。私は、ハンバーガーは鼻濁音だし、今回の冒頭にあるアナログも鼻濁音である。
 いま百歳くらいの人から標本をとっておいたほうがいい。国立国語研究所あたりがやってくれないものか。切実にそう思う。このままだと、正しい鼻濁音の使い方がわからなくなってしまう。

鼻濁音ができない人がいるらしい0905

 前回お話しした声優養成講座みたいなところに、「鼻濁音ができない人は」と書いてあった。その処方箋は、「『ん』と軽く言ってから『が』と言えばよい」というものである。だから、鼻濁音ができない人がけっこういることが、逆にわかる。
 そこに、「外来語は鼻濁音にならない」と書いてあったと前回言ったが、ロングラン、ロングスカート、ロング・バケーションなどは、前述の「ng」なんで、必然的に鼻濁音になる。
 その講座みたいなものには、「オノマトペも鼻濁音にはならない」と書いてあった。これも疑わしい。フガフガ、イガイガは、私は鼻濁音になる。
 だから、鼻濁音になる規則がわからない。
 こんなことを書いていたら、小学校に入る前に読んだ本に「えいぐゎ」と書いてあったことを思い出した(もしかしたら、ルビだったのかも)。「えいぐゎ」は「映画」のことである。鼻濁音を「ぐゎ」と書いたのだろうか。
 あっ、もうひとつ思い出した。これは明らかに絵本だったのだが、「きくゎんしゃ」と書いてあったぞ。「機関車」のことである。絵が機関車だったもんな。
 これは鼻濁音ではないが、こう書いた時代があったのかなあ。まったくわからない。もしかしたら、親戚の家かなんかで、戦前の本や絵本を読んだのかもしれない。
 そう言えば、私は小学校で鼻濁音を習った記憶がまったくない。教師が教えられないってんで、文部省が諦めたのかねえ。あるいは、リテラルでよろしいということで、文字を音声化することだけ教えればよろしいということなのかね。これもわからない。
 ここからは単なる感想になるが、「おれが」というときなど、鼻濁音にならないと、私なんかは、「この人、自己主張の強い人だなあ」と感じてしまう。誰かとしゃべっているときに、たとえば、「あなたはそうおっしゃいますが」と言われ、この「が」が鼻濁音じゃないと、それだけで、「この野郎、殴ってやろうか」という気になる。
 だから、逆に、鼻濁音のない地方や、あるいは濁音/鼻濁音を区別しない人なんかには、鼻濁音を使ってしゃべる人間は、なんだか軟派で、くねくねしているように思われるのかもしれないな。
 若いころ関西に行って、学生寮みたいなところに行ったことがあった。どこの大学で、なんの用で行ったのかも完全に忘れているが、そこの「ヌシ」みたいなやつが、話のなかでやたら「○○しちゃって」と言う。「○○しちゃって」というのは関東弁であり、関西の人間が聞くとたぶん相当に気持ち悪いんだと思う。その「ヌシ」は、その気持ち悪さを表現したくて、「〇〇しちゃって」を連発していたのだろう。つまり、異化効果を狙っていたのだろうな。
 私は場末とはいえ東京生まれ、育ちで、「○○しちゃって」なのだが、その私が聞いても、「ヌシ」の「○○しちゃって」は十分に気持ち悪かった。狙った異化効果が成功していたわけである。
 私らが、よく知りもしない関西弁で、「わしら、チャキチャキの江戸っ子やさけ、そないな関西弁でぐちゃぐちゃ言われたら、イライラしてきまんのや」とか言うのの逆バージョンだな。
 たぶん、鼻濁音も、聞く人が聞いたら相当に気持ち悪いんだろう。でも、これは仕方ない。

「じ」と「ぢ」は違う0906

「音声」と「かな」はイコールではないというお話が続いている。本日もその一環。
 50年近く前の話である。
 私は、ある本で、四国のある地方では「じ」と「ぢ」の発音が明らかに違っているという話を読んだ。その本のタイトルも著者も完全に忘れている。たぶん、専門書ではなかったのだろう。たとえば、紀行文の一か所とかそういうことだったのだと思う。四国のどの地方かも、もう忘れてしまった。松山とか、あの辺だった記憶がかすかにはあるが、確かではない。だが、四国は間違いがない。
 そのころ、私は、東銀座の雑居ビルの4階にあった会社で仕事をしていた。
 そこへ、新人として来た女性が、ちょうどその地方出身だったのである。「しめた!」と私は思った。
「ちょっと悪いんだけど、『富士山』って言ってみてくれる」
 昼休みに、私はそう頼んでみた。女性はけげんな顔をしたが、「ふじさん」と言ってくれた。
「じゃあ、今度は『鼻血』って言ってみて」
 彼女の発音する「じ」と「ぢ」は、明らかに違っていた。「じ」のほうは摩擦音成分が多く、「ぢ」のほうは破裂音成分が多い。これは「ず」と「づ」でも同様だった。
 でも、今は、おそらく「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は、50年前に比べたら、その地方でも相当に同一化しているものと思われる。「かな」の呪いでそうなるはずだ。本来、「かな」からは自由であったはずの「音声」が、逆に「かな」に規定されてしまうのである。
 ネットで調べ、1986年に内閣告示で、「『ぢ』『づ』は原則として使用しないこと」となったことを知ったが、たぶんこれは「最終の」ということで、これ以前に通達だか告示だかが何回かあったはずだ。
 私が小学校のときには既に、そうなっていた。なんで「じ」「ず」になるのかわからず、教師に質問したら、教師がヒステリーを起こしたのだった。教師もわからなかったのだろうな。だって、いまの私にだってわからないものな。教師がヒステリーを起こすのも無理はない。
 この内閣告示なるものを今回改めて読んでみたが、よくわからなかった。「こういう原則でやる」ということはむろんわかるが、細則や、特にその理由は理解できないところが多い。間違っているんじゃないかとすら思う箇所すらある。そもそも、慣用の集成でしかない言語を、行政が決めるっていうところに問題があるんじゃないかね。 
 政治も行政もどうでもいいんで、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の問題に戻る。
 そもそも、「さ行」「た行」そしてその濁音の行のい列、う列は、なんだか不誠実な感じがする。「さしすせそ」のうち、「し」は五十音表的には「si」にならなければならないはずだし、「たちつてと」の「ち」は「ti」にならなければならないはずである。同様に濁音も「zi」「di」になるはずである。
 この理由もわからない。「いろは」だった時代には整合していたものが、五十音表にむりくりしてしまったのが不整合の(ように見えてしまう)理由なのだろうか。つまり、五十音表にしようという了見そのものが間違っていたのかね。

甲類、乙類(万葉仮名)0907

 甲類乙類で検索すると、おそらくまず焼酎が引っかかる。これは健全というものである。だが、私は不健全なので、ここでの甲類乙類は万葉仮名の話だ。
 雑に、かつ単純に言えば、7世紀、8世紀の日本語の母音の「イ」「エ」「オ」は2種類あった。韓国語をほんの少しでも勉強した人には、これは「なるほど」とうなづけることだと思う。
「イ」「エ」「オ」に 甲類乙類があるのを発見したのは橋本進吉である。
 たとえば、「秋(あき)」「君(きみ)」「衣(きぬ)」などの「き」に相当する万葉仮名は支、伎、岐、吉、企、枳、寸、来などであり、これを甲類と呼び、「木(き)」「月(つき)」「霧(きり)」などの「き」に相当する万葉仮名は幾、忌、紀、奇、帰、木、城などで、これを乙類と呼ぶ。
 これらは厳密に区別して使われ、混同されることはなかったという。つまり、発音自体が異なっていたため、混同されることがなかったと考えるのが順当であるということだ。
 ただ、いま申しあげたことは、冒頭に「雑、かつ単純に言えば」とお断りしたように細則のようなことは完全に無視している。たとえば、母音一音節である場合にはこの区別はなく、「子音+『イ』『エ』『オ』」となった場合に甲類、乙類が立ち現れるというようなことだ。
 ちょっと個人的な感想を言わせていただく。
 私は、優れた科学者とは、混沌からパターンを見つけられる人だと思っている。そこから、あらゆる科学的な発見が誕生する。「混沌からパターン」を別の言い方にすると、「無から有を」でもいいし、「常識から非常識を」でもいい。便宜的に科学者と言ったが、これは、文学者でも、画家でも、音楽家でも、もっと極端には宗教者でも同じことだと思う。こういった方々は、「その瞬間」を求めて、著作、画業、研究、創作等々を続けているのだろう。
 橋本進吉は、国語学者と言われているが、文献学者である。万葉集を読んで読んで読み抜いたときに「これ」を発見したのだと思う。
 本居宣長が『古事記伝』でこの問題に触れ、高弟の石塚竜麿が『仮字遣奥山路』で継承しているが、それは長い間忘れられていた。橋本進吉が『仮字遣奥山路』を知ったのは「これ」を発見した後のことだったはずだ。橋本進吉の発見は「再発見」のようによく言われるが、むしろ、橋本進吉が『仮字遣奥山路』をも発掘したと言ったほうが事実に近いと思われる。
 前述した「混同されることがなかった」であるが、実は同じ万葉集でも東歌、防人歌ではかなり多くの混同が見られるという。これも、冒頭の「雑、かつ単純に言えば」に該当することだ。東のほうでは訛ってたんだな、たぶん。もうひとつ、このことで歌の作り手と書き手は同一人物なのだろうかという疑問も浮かぶが、それは次回に。
 一方、畿内では、8世紀後半以降、甲類乙類の使い分けは次第にあいまいなものになっていき、9世紀にはほぼ失われてしまったという。これも、「『じ』と『ぢ』は違う0906」に書いた「かなの呪い」効果のようにも感じられる。
「音声」と「かな」はイコールではないというお話をずっとしているが、今回のお話は、リテラルそのものから、オーラルそのものではないものの、オーラル的なことも発見できないことはない例としてお話ししたものである。 

『万葉集』の歌は、自分で書いたのものなのか0908

 まず、恥ずかしい話から。
 昨日の『シェアハウス・ロック』には、橋本進吉が5か所出て来る。最初の橋本進吉は間違わずそう書いたのだが、二度目では、「高橋新吉」と、ついうっかり書いてしまった。私は、橋本進吉よりも、どちらかと言えば高橋新吉のほうに馴染みがある。高橋新吉のほうは、竹馬の友といった感じである。
 で、二度目以降をすべて高橋新吉と書いてしまった。書きながら、ちょっと違うなあという気がしていたのだが、でもそう書いてしまったものは仕方ない。投稿後、それに気が付き、まず、「前回の高橋新吉は、すべて橋本進吉の間違いでした」と今回書くつもりになった。論理的にはこれでいいはずである。だって、一回目に書いてある橋本進吉には言及していないんだからね。
 ところが、この訂正の仕方も、間違っているのではないかと思ってしまったのである。なんでそんなこと思ったものか。それで、慌てて削除し、正しいと思われるものを再掲載した。
 でも、37分間間違った状態のものが掲載されたので、ひとりやそこらは、その状態を読んだ方がおられるかもしれない。
 後期高齢者になってウロが来たとお思いかもしれないけれども、こういうのは私が若い時分から苦手とするところで、こう書いているいまでも、前回が本当に正しくなっているかどうか、いまいち自信が持てない。
 ジャン・ポール・ベルモンドを主語にして、ずっとジャン・ギャバンの話をしていたりすることがよくあった。過去形で書いているが、もちろん現在形でもある。記憶の方略や、想起の方略になにか欠陥があるのか、いずれそのあたりに問題があるようだ。
 さて、『万葉集』の話に戻る。
 柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持、山上憶良、大津皇子などというメジャー詩人は自分でつくって、自分で書いていたと思わざるを得ないが、東歌、防人歌なども詠んだ人が自分で書いていたのだろうか。疑問である。
 租庸調の庸で、半強制的に西に送られ、国防に駆り出された連中には、字など書けなかった人々も多かっただろうことは想像に難くない。字が書けずとも、歌を詠むのに長けていた人たちもいただろうことも、また想像に難くない。特に読み人知らずなんかは、リテラルで流通していたのならまず起こりようもないので、オーラルで流通し、誰かがそれを筆記して、それで読み人知らずになってしまったと考えるのが順当である。
 あの時代に『万葉集』を編んだのは、おそらく国家的なプロジェクトだっただろうが、『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっていない。勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、紙が当時貴重品だったこともあり、多くはリテラルでよりも、オーラルで伝承されていったことも、おそらく間違いのないところだろう。二十巻に最終的にまとめられたのは、大伴家持によってというのが、現在のところ妥当とされている。ここで、初めて全リテラルになったのではないか。
 リテラルでなく、オーラルでより多く流通していたと考えると、枕詞の謎も大半はとける。オーラルで、いきなり「奈良の都」などと言われると、なんだかよくわからないだろうけど、「青丹よし」と言われれば、聞き手のほうも「ああ、奈良が来るのかな」と見当がつき、聞くにも安心だろうからだ。
 ああ、いつも申しあげることだが、素人が無邪気に言ってることなんで、あまり本気になさらないように。

『万葉集』を通読したことがある0909

 前回、前々回にご登場願った橋本進吉さんとか、中西進さんとか、白川静さん(素晴らしい万葉論がある)あたりであれば、『万葉集』を通読したことが何べんもあるだろう。
 こういった、国の宝どころか、人類の宝みたいな方々の後に自分の話を書くのは気がひけるなんてもんじゃないけれども、私も一回だけ通読したことがある。
 私は、定職がない状態で結婚してしまった。だから、当初、お金を稼げそうな話が来れば、犯罪以外はなんでもやった。こう書くと私が倫理性の高い人間のように思われるかもしれないが、そんな気遣いはまったくなく、ただ犯罪の話が来なかっただけである。
 その「なんでも」のなかに、クイズのチェックマンという仕事があった。設問に対する回答が正しいか否かをチェックする仕事である。2週間で20問を調べ、3万円もらった。一問あたり、1500円である。
 あるとき、「『万葉集』には、桜よりも梅が多く出てくる」をチェックすることになった。いまなら、まずネットで検索するのだろうが、ネット自体がないころである。図書館に行って探しても、専門書にこんなトンチキな話が書いてあるとも思えない。
 私は、『万葉集』が愛読書のひとつだったので、文庫本が家にあった。それを読んで、「正」の字を書いていくことを思いついた。まず、目で本をサーチして、「正」の字を書いていった。
 30ページくらいまで来た時点で、「待てよ」と思った。
 ページを繰る手間は一緒である。目で「梅」「桜」を探す時間より、読むほうが時間がかかるのは間違いないが、せいぜい数倍というもんだろう。この際、「正」の字を書きながら、ちゃんと全編通しで読んでやれと私は考えたのである。
 初めのページに戻り、読みながら「正」の字を書いていった。丸まる2日かかった。つまり、私は2日間で1500円稼いだことになる。
 こういった調査の結果を持ち寄って、2週間に一回、公聴会のような、査問委員会のようなものが開かれた。ADが司会し、他のチェックマンも全員揃い、ディレクター、プロデューサーが重鎮席にドンと座っている前で調査結果を発表するのである。ディレクター、プロデューサー、AD以外の他のチェックマンからのつっこみも入るし、根拠、出典も聞かれたりする。
 私の番になり、19問は無難にこなし、前述の問題になった。
「これは正解です」と私は答えた。もう憶えていないが、「桜」「梅」の出現数も答えた。多少の数え間違いがあっても、「梅」のトップは間違いない数であった。
 プロデューサーは、「根拠は?」と当然の質問をしてきた。
 私は、前述の話をした。
 プロデューサーは、「どのくらいかかった?」と聞いてきた。私は、「丸まる2日です」と答えた。拍手が沸いた。この公聴会、査問委員会で拍手が沸いたのは、たぶんこのときだけだろうと思う。
 ちなみに、このクイズ番組は、フジテレビで放映されていた『お昼のやりくりクイズ』というものだった。この番組が終了し、私は、クイズ作成者としてスカウトされ、今度は『巨泉のクイズダービー』のクイズを書くことになる。

 
長女に字を教える10910

「『じ』と『ぢ』は違う0906」で、「五十音表」と書いたとき、長女に字を教えたときのことを思い出した。本日は、そのお話を。
 我が長女があるとき、「字をおしえて」と言い出した。保育園の年中さんのときだったと思う。当時、横浜市に住んでおり、横浜市は待機児童が少ない市として知られていた。長女が通っている保育園は教師の子ども、公務員の子どもが多かった。そんなことで、親が自分の子どもたちに教えていたのだろう。たぶん、長女の周りはほとんど字の読み書きができるので、長女は焦っていたのだと思う。
 私は、「そのうちね」と適当にあしらっていた。当時、私は、週一で完徹、そうじゃない日も終電で帰るという状態だったのである。土日は子どもと過ごしたいので、完徹を週一やっても、土日は家にいるようにしていたのだ。
「そのうちね」が続いたので、「おとうちゃんをたよっていたら、字がかけるようにならない」と言い出し、新聞を無意味に写し始めた。「宇野首相、更迭」と書き写したのをおぼえている。もちろん、完璧に書けるはずはなく、「そう読めないこともない」といった程度のものである。「更迭」だったかどうかは正確にはおぼえていないが、例の「三本指失脚」のころのことである。
 その「宇野首相、更迭」を見て、私は、さすがにかわいそうになり、「よし、今日から字を教えてあげる」と長女に宣言したのであった。
 まず、その日は、長女と散歩に出て、目に入るものを言わせた。
「あれはなあに?」
「ブランコ」
「ブランコは、何文字?」
「四文字」
「正解です」
 文字は、最もプリミティブには事物の呼び名を書くものだ。ややこしい、観念的なことを書くようになるのは、そのずっと後のことになる。まず、それを教えようと思ったのである。それと、日本語には一音一文字という大原則がある。それもまず教えたかった。当時住んでいた高台を少し下ると、大きな公園に出る。そこからは、京浜急行が走るのが見えた。
「あれは?」
「でんしゃ」
「電車は何文字?」
「三文字」
「残念でした、違います」
「えっ、なんで」
「電車ってゆっくり言ってごらん」
「で、ん、しゃ」
「小さく『ゃ』って言ってるでしょ?」
「ああ、四文字」
 この日は、一時間散歩をし、目につくものを言わせ、何文字かを言わせ、それで終わった。
「おとうちゃん」
「はい」
「字をおしえてくれるっていったけど、ずっとさんぽをしてたね」
「そうだね」
「こんなんで、字がかけるようになるの?」
「なるよ。大丈夫」

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