シェアハウス・ロック2411初旬投稿分
【Live】ウーバーイーツ用「イタリアン麻婆茄子」1101
火曜日(10/29)はウーバーイーツの日であった。一昨日も書いたが、ここのところ「八犬伝」、馬琴にかまけて、日常些末なことの報告がおざなりになっていたのである。まあ、おざなりになっても誰も困らないけどね。
我がシェアハウスのおばさんも、ウーバーイーツ・メニューをつくる。今回は、農林省ゆで卵、鶏飯である。このゆで卵は、「【Live】卵宇宙(ゆで卵のつくり方)1009」で紹介した手口だ。省エネ、省力で、なかなか秀逸。鶏飯は、どこやらで買って来た「鶏飯の素」みたいのを混ぜて、炊くだけ。キッパリと手抜き。
私が制作したのは、「イタリアン麻婆茄子」。ようするに、「茄子のミートソース掛けイタリア風」であるが、そのほうがおもしろいので、「イタリアン麻婆茄子」と呼ぶことにしている。無国籍料理ではなく、国籍不明料理。「メキシカン炒飯」とか、「グリーク炒飯」とか、国籍不明料理ネタには事欠かない。
まず、この日曜日、「【Live】この連休の仕事は1015」でお話しした「合い挽き100g99円」の安売り広告が再び出たので、これを買いに行った。
翌月曜日、1㎏990円を、少量の塩と多量の胡椒で炒める。これは、やや炒めすぎくらいがよろしい。若干火が通ったところで料理酒を加え、カリカリに炒め、とりあえず別の器に移す。
茄子はヘタを取り、縦に八等分し、それを横に二等分する。今回は、玉ネギ、ピーマンも使うことにした。これは賽の目というか、ほぼ親指の爪大に切る。
中華鍋にオリーブオイルを引き、茄子を投入し、一分後くらいに玉ネギ、ピーマンを投入し、玉ネギがやや透き通り加減になったら、一回別の器に移す。
別の器に移しておいた挽肉の半量を、再度炒める。このときはオイスターソースを加え、カラカラになるくらい炒める。
カラカラになったら、別に移しておいた野菜を全量入れる。中華鍋はほぼ満員御礼状態になる。
混ぜ合わせたら、即味をつける。今回は、「パスタの素」みたいなのとニンニクみじん切り、ショウガを擦ったもの、チリパウダー、カイエンペッパーである。「パスタの素」は、要するにトマトピューレーに多少味が付いているもの。たいした味がついているわけではないので、トマトピューレーとして使って、一向に差し支えない。
「イタリアン」でなく、「麻婆茄子」に比重を掛けるのであれば、トマトピューレーをやめ、豆板醤、甜面醤、ナンプラーを使う。こちらは最終的に片栗粉でまとめるが、こっちはこっちでなかなかよろしい。
夕方、我が友青ちゃんとイノウエさん、おばさんが激戦を戦っている雀荘にウーバーし、一階の居酒屋で飲み、帰って来たのだが、この日はなんだか疲れていたらしく、酔いが回るのが早かった。
ところで、トマトを使うと、なんで中華鍋はピカピカになるのかね。どなたか、ご存知の人に教えていただきたい。
【Live】本日は、縄文の市民講座1102
本日の講座は夕方の5時30分から7時で、こういう市民向けの講座としては異常と言っていいくらい遅く始まる。場所は八王子市のはずれ、川口町にある市民センターである。はずれと言ったが、向こうに言わせると私らのほうが外れである。私らのほうが八王子になったのはずっと後だ。たぶん、400年くらい後。
タイトルは「川口学~初めから学ぶ川口の縄文時代と子抱き土偶」というもの。縄文時代どころか、私は現在の川口町も知らないので、縄文時代から学べるなら望むところである。子抱き土偶というのも、写真ですら見たことがない。
私はもともと縄文時代が好きで、展示会等々にはまめに足を運んできたし、書籍もそれなりには読んでいる。だが、専門家というほど詳しくはない。ああ、前に私、「八犬伝」の専門家と言ったが、あれ、冗談ですからね。本物の専門家が、伏見扇太郎の「八犬伝」を、小岩東映で見るはずがない。万が一見てしまっていても、恥ずべき汚点として、口には出さないはずだ。
東京江戸博物館で『東京に生きた縄文人』展というものがあり、いまから4年ほど前だったと記憶しているが、それにも行っている。「多摩ニュータウンのヴィーナス」が目玉の展示会だった。私らのシェアハウスがあるのも多摩ニュータウンの一角である。
「八犬伝」のお話をしたとき、里見氏の出城跡の里見公園にも触れたが、それよりさらに江戸川の上流に行ったあたりも縄文土器の宝庫であり、よく掘りに行ったものだった。
「縄文海進」という現象があった。縄文時代のある時期、温暖で、海面が上がり、いまの海抜60mあたりまでが海だった。その周辺に縄文人の諸君が多く棲んだ。だから、奈良盆地では、そのあたりに『古事記』に登場する集落名が集中しているという。
ああ、「多く棲んだ」と言ったが、当時の人口は、日本列島全体で30万人くらいだったらしい。これは、『日本二千年の人口史』(鬼頭宏)による。
前述の、「さらに江戸川の上流に行ったあたり」は、バスの停留所名で言うと「栗山坂下」に相当する。市川と松戸を結ぶバス路線である。
いま私らが住んでいるあたりも同様の海抜であり、やはり縄文土器の宝庫だ。私らの最寄り駅の隣駅には、「ストーンサークル」もある。
我が友青ちゃんとイノウエさんと、我がシェアハウスのおばさんが激戦を展開する雀荘の最寄り駅には、近所に「東京都埋蔵文化財センター」という施設があり、ここに行けば縄文土器がいつでも見られる。私は何回も行っている。多摩ニュータウン開発時に出土した土器が保管されているのだろう。
ただ、ここは専門家が蝟集している施設らしく、ともかくいちいち専門的過ぎ、私ら、ただ縄文が好きなだけの素人には、ちょっと敷居が高く、発掘の記録も精密に過ぎ、かえって全容がなかなか見えてこない気がする。たとえば、「No.471遺跡の発掘」といったタイトルでA4判100ページくらいの記録を見ても、なかなか全容なんか見えてこないでしょ?
本日の講座で、多少は全容がつかめるかな。講師は、国際縄文学協会会員の方なんで、なにか八王子近辺の縄文時代の、素人向けの本を教えてもらえるかもしれない。それにも期待している。
ああ、ちょっと前に、「素人には、ちょっと敷居が高い」と言ったけど、それは「資料の質が」という意味ね。入場料も無料だし、館内の展示物の解説もていねいで、そういう意味ではまったく敷居は高くない。
【Live】本日は、大腸内視鏡検査の日1103
昨日は、縄文時代の八王子を探検したが、本日は私の腸内の探検である。
大腸内視鏡検査は、実は前日から始まる。厳密には三日前から始まるが、「厳密」のほうは、それほど気にしなくてもいい。ようするに、繊維質が多く、消化に悪そうなものさえ避ければ、それでいい。
「前日」のほうは、それなりに大変である。
朝食は普通にとっていいが(とは言っても消化に悪いものはNG)、昼食、夕食は「大腸内視鏡専用検査食」なるもの以外を食べてはいけない。「大腸(中略)食」の内実は、昼食=野菜のクリーム煮+クラッカー、夕食=大根のそぼろ煮+鳥雑炊というものである。これには、「ダルムスペースデリシア」という意味不明の商品名がついており、日本ハム(株)の製造である。中身は、クラッカー以外はそれぞれを離乳食化したものといったものだ。
昨日は、申しあげたように市民講座を、かなり遠方まで聞きに行ったので、「野菜のクリーム煮」は残し、クラッカーは夕食に回した。つまり、それ以外の「大腸(中略)食」を昼食にとり、川口町に向かい、開講を待つ間、ジャスミン茶を飲みながらクラッカーをポリポリ食べたのである。そうしないと、「大腸(中略)食」を消化できないことになる。消化できないと言えば、昼食用のクラッカーを夕方食ったことになるが、まあ、この程度は誤差の範囲だろう。
21時ごろ、プルゼニド(下剤)を4錠飲み、なるべく早めに寝る。ここまでは天国でこそないものの、地獄というほどのこともない。
翌朝(検査当日の朝)からは地獄である。
ニフレックなる下剤を検査の6時間前から2リットル(!)飲む。最初の3杯はそれぞれ15分かけ、4杯目から12杯目までは10分間隔で飲む。6杯目には、ガスコンなる正体不明薬を3錠飲む。正体不明とは言ったが、ガスコントロールかしら。
これはもう、医療というか、検査前準備というか、そういったものを軽々と超え、ほぼ拷問に近い。
まあ、内視鏡は肛門から突っ込むわけであるから、腸のなかを空っぽにしておくのだろうが、それにしても2リットルだよ。朝飯が食えない、昼飯も食えないなどと言ってる暇も、考える暇もない。もう、2リットル飲むだけで精一杯である。
私は男の大厄(42歳)の後厄の歳に、仕事上でムチャクチャの三重連みたいなことが起こり、そのストレスでがんが急成長したのではないかと思っているが、その2年後に大腸がんが発見され、手術を受けたのである。開腹手術だった。当時は、内視鏡手術ができるのは腫瘍が1cmまでと言われていた。
そういうことまで考え合わせれば、検査の苦闘はほぼ24時間以内に収まるので、まあなんのこともない。
八王子に移ってから8年間で、大腸内視鏡検査を受けたのは、今度で4回目である。
1回目で腫瘍が3つ見つかった。このときは、24,000円取られた。1ケ8,000円なのかね。今回、またもしあれば、1ケ8,000円説が正しいかどうかが判明することになる。
【Live】意外と快適「大腸内視鏡専用検査食」1104
今回の『シェアハウス・ロック』は、実はニフレック(下剤)2リットルと格闘しながら書いている。つまり、時制は過去で、昨日の朝である。
いままでで、3杯飲んでいる。格闘は、あと10杯分続く。
これを飲んでると、他にたいしたこともできないので、これを書いているわけである。10分置きにコップ1杯なにやらを飲むっていうのは、けっこうせわしいよ。ビールでも酎ハイでも、飲み始めて30分も経ってこの頻度だったら、せわしい感が出て来るに違いない。
ニフレック4杯目に入った。地獄に突入する。
昨日は、朝食以降「大腸内視鏡専用検査食」なるものしか食べられなかったので、朝起きたらぐったりかと思っていたら、そうでもない。なんだかすっきり目覚め、ぐっすり眠った感があった。体も心なしか軽い。
以前、天才鍼灸師・クボヤマさんのお話をしたが、そのときに省略していたことがあった。クボヤマさんが、ご自身の鍼灸治療と併行して患者に勧めていた「ミルク断食」というものである。
これをやるのは簡単。使うのは、森永の「めぐみ」という乳幼児用のミルク。乳幼児用と言っても段階があるようで、一番小さい乳幼児向けのものである。
これを100グラム、ぬるま湯で溶かし、ドロドロになったものを飲む。朝昼晩の三回。食前か、食後かって聞くなよ。これが食事である。だから、「ミルク断食」。
だいたい3日でワンセット。だが、一週間続けてもいいし、1日で止めてもいい。1日でも、それなりの効果がある。あまりに体調がよくなるので、3か月続けた人もいたという。
ここからは「*効果は個人の感想です」になるのだが、私の場合は、肩、首、背中のこりが相当に軽減される。目がはっきりする。たぶん、頭もスッキリしているんだろうな。バカだから、はっきりわからない。
八王子に来てからも、「ミルク断食」をしたことがある。本格的な断食から戻すには、重湯、おかゆ期間を経由するが、「ミルク断食」の場合はそこまでしなくともよい。栄養的には、それほどの状態ではないからだ。でも、胃と腸はだいぶ休息していただろうから、いきなりハードなものは、やはり避けたほうがいい。
そこで、パンケーキを食べていたら、「菅(義偉)かよ!」とメールでからかわれたのである。菅がパンケーキおじさんになったのは、総理大臣になってからだからね。つまり、私らが八王子に来てからである。
ところで、クボヤマさんは、なんでこんなことを思いついたんだろう。クボヤマさんの叔父さんが森永の研究者で、たぶんその人が、ビフィズス菌かなんかの動物実験をやっていて、そのあたりからヒントを得たのかと想像はしている。
マウスかなんかの体調が、やたらよくなったんだろうか。つまり、腸内細菌の関係と、胃腸を休ませる関係でである。
「大腸内視鏡専用検査食」で多少は胃腸を休ませたので、肩こりの具合は相当よくなった。もうひとつ、ニフレックは冷やして飲むと、常温で飲むのよりだいぶ楽になる。
9杯目に入る。
【追記】腫瘍は発見されなかった。よって、1ケ8,000円かどうかの確認もできなかった。待たされたんで『新編八犬伝奇想』(小谷野敦)はだいぶ進んだ。これはいずれ、「帰ってきた八犬伝」で紹介する。
【Live】寒くなってきた1105
朝起きると、階下に行き、まずコーヒーを淹れる。このとき、10日前くらいまでは、起きたままのかっこう、つまり寝間着のままで階下に行った。ここ数日は、用心のため、フリースの上着を持って降りるようになった。
コーヒーミルを使ったときに、ミルにくっつく粉の量が多くなり、少し掃除が大変になった。湿度が下がったからである。
これらは毎朝のことなので、こういったことから寒くなったことを実感できる。
コーヒーをたてるときに、換気扇を回さないようになった。それでも暑いと感じないときもある。コーヒー用のお湯も、沸くまでの時間が長くなった。
バッハを聴き、コーヒーを飲み、煙草を吸い、ほどなくお腹が空いてくるのでパンを焼く。バター、ジャムをつけ、ミルク、ヨーグルトで朝食を済ませ、食器を洗うと、メダカの諸君の朝食である。
一週間前くらいまでは、私が近づく気配で水面に出て来たのだが、このごろは、餌の容器で睡蓮鉢の縁をコンコンと叩いて合図しないと、水面までは来ないようになった。水が冷たくなったからだろう。あとひと月もすると、冬眠に入る。
今年の酷暑による惨事で、メダカの諸君は大量死してしまったが、いま、11匹いる。萩尾望都みたいだな。
昼は晴れていればそこそこ暖かいのだが、それでも、夜になると肌寒くなる。
いまのところ、掛布団は、タオルケット、綿毛布×2、ベッドカバーで足りているが、そろそろ羽根布団を出さないとならない。
リビングには、昨日、ガスストーブを出した。あとひと月もすると、コーヒー用のお湯を沸かす前に、ガスストーブに点火するようになる。
今朝は6時に起き、前述の手順で朝食を済ませたが、起きたときにはまだ薄暗い感じがした。それだけ日が短くなってきているのだろう。雑に計算すると、一日に2分弱、昼間の時間が短くなる。
本日は、陶芸クラブの日なので、一時間ほど早起きしたのである。
片口4つの素焼きが終わったので、注いだときにおしりに回らないように、口をやすりで調整する。これがけっこう大変で、やすりで削るたびに確認のため水を入れ、試さなけらばならない。これでよしとなっても、釉をかけ、本焼きをやった段階で、またおしりに回るようになったりする。
なかなか難しい。だが、おもしろいし、楽しい。今日は、作陶までは、もしかしたら行けないかもしれないな。
【Live】縄文の市民講座(子抱き土偶の真実)1106
「【Live】本日は、縄文の市民講座1102」は、「これから行く」というお話だったが、今回は行った後のお話。
まず、前回の訂正から。前回、
縄文時代のある時期、温暖で、海面が上がり、いまの海抜60mあたりまでが海だった。その周辺に縄文人の諸君が多く棲んだ。
と書いてしまったが、これは間違い。正しくは、
縄文時代のある時期、温暖で、海面が上がり、いまの海抜60mあたりに縄文人の諸君が多く棲んだ。そのすぐ近くまでが海だったと考えられる。
となる。つまり、縄文人の諸君の住んでいたすぐ下まで海が来ていたということで、それをヘンな具合に書いてしまった。
また、
子抱き土偶というのも、写真ですら見たことがない。
と書いたが、これは当たり前だった。講師の方によると、いまのところ「子抱き土偶」は一例しか発掘されていないという。これは八王子市川口町の宮田遺跡というところで発掘されたというが、宮田遺跡はもう埋め戻され、遺跡としては残っていないようだ。
当日配布された資料では、16000年前ごろ縄文草創期開始、11000年前ごろ温暖化の始まり、3500年前ごろ寒冷化開始とあった。よって、4000年前あたりが「縄文海進」のピークだったんだろうか。
それにしても、一万年以上にわたる縄文時代に、技術革新はなかったのだろうか。そんなことは、とても考えられない。
ところで、この年代記に、「子抱き土偶」が書かれていたのは5000年前ごろである。「子抱き土偶」はレプリカで見せていただいた。
像長7.5cm。ただし母親の頭部は欠けている。つまり、頭ひとつ分だけ像長は短い。母親は右利きの人がそうするように右手で赤ちゃんを支えている。授乳時の姿なのだろう。ただ、右手が人間の手とは思えないくらい赤ちゃんの下半身にぐるぐる巻きにされており、これは図像上の表現なのか、あるいはなにかそういった道具なのか。道具としたら、布製? 布はまだないだろうから皮革製?
いやいや、縄文人をバカにしてはいけない。布くらい織っていたかもしれないぞ。
というのは、土器は腐りにくいから残るが、木製、竹製、布製のものは腐るので、残っていないだけなのかもしれないからだ。
講師の方は、「【Live】本日は、縄文の市民講座1102」でお話しした江戸東京博物館の縄文展のパンフ、写真を資料に多用されていたから、私もけっこういいところにつけていた感じがする。同じ回にお話しした東京都埋蔵文化センターの資料も使っていた。
今回は、縄文の八王子の全容に近づくための資料はあまり得られなかった。
だが、独自にいろいろと調べた。まず、『新八王子史誌』というものが有力であることがわかった。「原始・古代の八王子」というHPがなかなかよろしいことも発見した。椚田遺跡公園、中田遺跡公園も雰囲気を味わうためには有望そうだ。また、近隣の町田、相模原には郷土資料館があることも知っているので、そのあたりから攻めるという手もある。
私は、シルバーパスなるものを持っており、バスは無料なので、これらに行くには無敵である。
まあ、でも、まずは今週の土曜日だな。縄文の市民講座の2回目があるのである。
【Live】楳図かずおさんが亡くなった1107
クインシー・ジョーンズも亡くなった。知っている人が、どんどん亡くなっていく。それでいて私は若い人たちをなかなかおぼえられないから、そのうち、世の中知らない人だらけになるなあ。ああ、こんな老人の繰り言を言うためにこれを書き始めたわけではなかったんだ。
毎日新聞11月6日の「余録」は、楳図かずおさんの追悼ネタだったが、その文章に対する物言いというか、疑問というか、そういったことが今回のテーマである。疑問と言ったが、できることなら質問したい。
当該の部分をまず抜き書きする。
▲父親が奈良県の分教場教師だった子どもの頃、暗闇やヘビが怖かった。それは「防衛のために遺伝子に組み込まれた恐怖」で「本当の恐怖は遺伝子的に体験していない原爆やダイオキシンなど人工物の中にある」と考えていた▲
まず、私は、恐怖などという高級なことが遺伝子に組み込まれるものだろうかという疑問を持った。これではまるで、ルイセンコ生物学ではないか。次に、上記「考えていた」のは、子どものころの楳図かずおが、だろうかと考えた。もしそうであるならば、原子爆弾はともかく、ダイオキシンなどというものは、普通の(当時の)子どもであれば、その存在すら知らないはずだ。それに、「それは」と簡単に接続させるには、「暗闇やヘビ」と「原子爆弾やダイオキシン」は距離がありすぎる。
この「余録」は、「楳図かずおという恐怖は皮膚から直接、脳に達し、渦巻く奈落に真っ逆さまに落ちていく」という萩尾望都さんの「言葉」から始まっている。であるので、引用部分のカッコ内も萩尾望都さんの「言葉」であると考えれば「ダイオキシン問題」は解決する。そうなのだろうか。でも、素直に読めば、子ども時代の楳図かずおが「考えていた」と読めてしまう。
引用部分の直ぐ後では、「あずかり知ることができないものへの『畏怖』を失った人は、自分が万能であるという錯覚に陥っている」とも語っている、と書いている。
この「語っている」の話者も萩尾望都さんだと考えれば、「余録」の筆者は、「地球温暖化や戦争を止められない世界は『畏怖』を忘れていないか」というオチを導くために、萩尾望都さんの「言葉」を引き、言葉はよくないが、楳図かずおさんは落語のまくらのようなことになる。
私の読み方でいいのだろうか。
▲で挟んだ部分も、素直に読めば、「暗闇やヘビが怖かった」のは、父親なんだか、子どもなんだかよくわからない。かろうじて、「子どもが分教場教師であるわけがない」という常識を前提に、「子ども」は楳図かずおなのだろうと見当がつき、主語は子どもなのだろうと見当がつく。
事細かに文章を書くと、文章がくどくなったり、かえってわかりにくくなるため、「暗黙」という一種のテクニックを使うことがある。この回の「余録」は、楳図かずおが主人公と思われるので、子ども=楳図かずおとかろうじて見当がつくが、ちょっと「暗黙」が過剰のような気がする。
年金生活者の分際で、文章を書く人間としては最高峰にあると思われる「余録」の筆者に物を言う不遜をあえておかしたのは、なんだか当該の文章に「エッシャーのだまし絵」に感じるようなクラクラ感を感じたからである。このクラクラ感、私は嫌いではない。
帝国の没落11108
トランプかよ。
まあ、民主主義はいまのところ最良の制度ではあるので、トランプ大統領を認めざるを得ないが、トランプ自体は民主主義を認めていないフシがあって、前回の敗北も認めず、米議会への支持者の突入を指示とまでは言わないが、少なくとも示唆した人物なんだからね。ヒドい選択ではあると思う。でも、この選択は、一応は民主主義的な手続きをとってはいる。だが結果は、民主主義を否定した選択であると、私は思う。
アメリカは、というか西側世界はどこへ行くのだろう。
唯一期待できるのは、官僚はバカではないので(少なくとも、移民はペットを食っていると広言する人物よりは利口だろう)、それほどヒドいことにはならないだろうと思いたい。前回のトランプ時代だって、恐れたほどはヒドいことにはならなかった。
トランプが大統領になれば、関税を上げるだろう。中国製品には、60%の関税をかけると言っている。
輸出、輸入では、実は誰も困らない。もう経済は、好むと好まざるとに関わらず、グローバルになってしまっているのだから、輸出入では誰も困らない。これは、年金生活者の爺さんが言っているのではなく、ポール・クルーグマンという、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者が言っていることである。私なんかよりずっと確かだ。つまり、トランプは経済がわかっていない。経済以外にも、わかってないことはたくさんありそうだ。
だいたいが、トランプの政治手法は、まず仮想敵を設定し、それをひたすら攻撃することによって、それに同意する支持層を集め、そういった力を源泉として事態を進めていくといったものだ。言わば、悪意の政治学である。認めたくないことだが、善意よりも、悪意のほうが一般的には強力である。
ああ、全然関係ない話だが(地下茎みたいなところでは関係がある)、どこかで安倍晋三名言録カルタなるものをつくろうとしているとんでもない動きがあるという。
私としては、安倍晋三妄言録カルタをつくって対抗しようと思っている。
安倍晋三妄言のトップは、衆院予算委員会かなんかで、「首相であるあなたの権限はどこまでなのか」と質問されたときに、「私は立法の長だから、森羅万象を担当する」とお答えになったことである。これを知ったとき、私は、人間というのはここまでバカになれるのかと、むしろ感動したことをおぼえている。
まず、立法の長ではなく、行政の長ね。晋三くん、わかったね。それから、森羅万象を担当するのは、ヤハウェとかの絶対神だけだからね。日本の神さまだって、担当があり、担当外はあまり口をださないんだからね。
私らは、残念ながら三権分立をすら理解していない方を、首班として仰いでいたことになる。民主主義には限界があることはわかってはいたが、トランプといい、安倍晋三といい、民主主義者をやめたくなったよ。
帝国の没落21109
「半導体の集積度は2年ごとに2倍になる」
これはムーアの法則といい、1980年ごろにコンピュータを使っていた人間はみんな知っていた。これを言ったのはゴードン・ムーアであり、インテルの創業者のひとりである。
私も当時はコンピュータの雑誌や書籍をつくっていたので、ムーアの法則を何回も活字にしたことがある。
ただ、例外はあった。集積度を過剰にあげると、RAМなどでは、飛び込んでくる宇宙線の影響で素子が壊れる確率があがる。これは、人込みの比喩で簡単にご理解いただける。たとえば、100m四方の広場がある。ここに銃弾を撃ち込む。この広場に、人が10人いたとしたら、よほど運が悪くないと弾には当たらないだろう。だが、100人になると、ぼちぼちと当たる人が出て来る。1000人、10000人という状態を考えれば、先ほどの問題は簡単にご理解いただけるはずだ。
現在、USBメモリなどで大容量のものがあるが、それはどう処理しているのだろう。なんらかの措置を施しているのだろうが、私は、残念ながら知らない。当時は、前述の対策でシールドをしたりすると、それだけで筐体が大きくなってしまうと言われていた。
さて、インテルはCPUの分野では断トツの業績を誇ってきて、インテル帝国などという言われ方すらしていた。ちょっと前に、「Intel in it」などというステッカーを貼っていた(貼らされていた?)パソコンを使っていた方も多くおられるだろう。
その帝国が脅かされていて、同業のクァルコムから買収を打診されるという屈辱すら受けているという。
これは簡単で、スマートフォン向けや、生成AI向けのチップの開発で出遅れたからである。
このことは、繁栄に胡坐をかいたなどという精神論だけでは片付かないなにかが影響しているに違いないが、私は寡聞にしてそういったことを分析したものを知らない。私はこのことを、自分の頭のなかでは「技術のドーナツ化現象」と呼んでいた。
日本も、日米半導体戦争などと言われていたころは威勢がよかったが(ただし、このころでもCPUでは大きく水を開けられていた。戦争になる程度だったのは、RAМやRОМなどの分野である)、近年ではラピダスが若干話題になる程度である。それも、大きく補助金に頼るような、国策企業と言っていいような状態である。
もっと身近には、お家芸だったはずの家電も振るわない。つい最近、「新興」で、元気だったはずの船井電機が買収だか救済合併だか、そういう状態になっている。
あちらこちらで、潮目が変わって来ている感じがする。
帝国の没落31110
アメリカ帝国、インテル帝国に続き、本日没落するのは、朝鮮民主主義人民共和帝国である。形容矛盾だが、形容矛盾こそがあの国なのだ。
朝日新聞なんかを筆頭に、各新聞の誇大広告だったにせよ、あそこんちは60年代くらいまでは「地上の楽園」だったのに、なんであそこまで酷い国になってしまったのか。私としては共産主義がダメというよりも、独裁がダメなんだと思いたい。
60年代くらいに「帰還事業」なるものがあった。北朝鮮系の人が、新聞などに書かれていた「地上の楽園」なるところへ帰るという、まあ、ムーブメントである。日活映画の『キューポラのある街』は、この「帰還事業」が背景にある。
張本勲さんは、20年近く前の新聞記事で、この「帰還事業」にまつわる話をコメントしていた。彼の周辺では「帰還事業」で帰る人が、私信にも検閲がある可能性があるので、「ピョンヤンの空は青かった」と書いて送れば、「本当に地上の楽園だった」という取り決めをして帰った人がいたと語っていた。つまり、彼の周辺では、既にして、「地上の楽園」説を疑っていた人がいたことになる。
切手の裏に細かな字で書いてから切手を貼って、手紙を出すようなことも行われていたというので、そういうところからの情報だったのだろうか。
張本さんは、Wikipediaで調べたところ、韓国籍である。だから、親戚、知人の話なのだろう。張本さんのWikipediaの少年時代の記事は、涙なしには読めないものだった。
さて、北朝鮮兵が15,000人、ロシア軍に編入され、ウクライナ戦線に投入されているという。こんなとこで言っても全然届かないとは思うが、速やかに捕虜となり、速やかに亡命するといいと思う。あの国で兵士になるまで生き抜ければ、どこへ行こうと、なにをやろうとツブシはきくだろう。だいいち、ゼロから脱北するよりは、だいぶ楽なはずだ。
第二次大戦では、米兵の戦意をくじくために諜報放送が行われ、「東京ローズ」なんて人がスターだったが、そこまで手が込んでいなくとも、食べログみたいなのとか、近隣のコリアンタウン(たぶん、あるはず)のタウン誌みたいなのを彼らに送ることを、ウクライナ当局には提案する。
独裁も、世襲も三代も経てば相当腐敗する。世襲だけでも相当腐敗するのに、それに独裁が加わわれば、腐敗しないほうがおかしい。
張本勲さんは、『サンデーモーニング』で見て、頭のいい人だなと思い、それ以来、私はファンである。今回Wikipediaで調べたところ、著書もたくさんあるようで、そのなかでも『張本勲 もう一つの人生:被爆者として、人として』(新日本出版社、2010年5月1日)には、前述のお話の続編が書かれているような気がしている。探して、読んでみようと思っている。