シェアハウス・ロック2409下旬投稿分

【Live】ポケベル爆発0921

 私が『おおエルサレム!』を読んでいる最中、ヒズボラ(レバノンのイスラム教シーア派組織)の戦闘員のポケベルが一斉に爆発した。2800名が死傷したという。ニューヨーク・タイムズは17日、イスラエルがポケベルに爆発物質と起爆装置を埋め込んでいたと報じた。18日には、トランシーバが爆発した。
 イスラエル側は「コメントしない」という対応をしているが、ヒズボラのポケベル調達先を調べていけば、コメントしようがしまいがいずれ明白になる。
 イスラエルのガラント国防相が10日、「ガザ地区での任務は完了しつつあり、ヒズボラの攻撃を受けるイスラエル北部に重点を置き始めている」と発表した矢先の出来事である。
「アルジャジーラ」によると、ヒズボラの指導者ナスララ師が、イスラエルによるサイバー攻撃を警戒し、戦闘員に対してスマホの使用を控えるように求め、比較的ローテクでGPSも搭載されていないポケベルを配備品としたが、それが裏目に出たかっこうである。
 この声明が出たのが数か月前であり、台湾のメーカーが製造し、戦闘員にポケベルが手渡しされた間のいずれかの場所で、この細工がなされたことになる。
『おおエルサレム!』は、毎日新聞のコラムで新版が出たことを知り、読み始めたものだ。著者はドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズであり、このコンビは、『パリは燃えているか?』を書いた人たちである。
 どちらもドキュメンタリー作品である。奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、全体小説的に書かれたドキュメンタリー作品である。
 概要を言えば、上下巻(各330p)、二段組み。このなかで、有名無名のユダヤ人、アラブ人、ヨーロッパ人、アメリカ人が動き回る。
 私は、ガザ地区の小児病院が空爆されたことを知り、焦燥に駆られていたときに、上記のコラムを読んだのである。
 アラブとイスラエルの確執は、私なりには知っていたものの、もっと微細なところまで知れれば、もう少し先までわかるのではないかと思ったこともある。それが、『おおエルサレム!』を読み始めた理由のひとつだ。
『おおエルサレム!』の巻頭、通常なら献辞が書かれるべきところに、エルサレムに関する文章が三つ載っている。右からユダヤ教(『詩篇』第一三七篇)、キリスト教(『マタイによる福音書』第二三章三七)、イスラム教(モハマッドの語録)の文章である。『マタイによる福音書』からは、次のものだ。

 ああ、エルサレム、エルサレム、
 預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを
 石で打ち殺す者よ。

 イエスの時代から、あの土地は呪われていたのだろうか。

【追記】
「いずれ」どころか、今朝の朝刊に、ブルガリアの「ノルタ・グローバル」といういかにも怪しげな企業が関与し、ハンガリーの「BACコンサルティング」という会社が製造していたことが判明したとあった。台湾メーカーが製造権を貸与した、いわゆるノックダウンだろう。

『悲歌のシンフォニー』0922

『悲歌のシンフォニー』は「20世紀後半において最も成功した交響曲のひとつ」と言われる。だが私は、「最後の交響曲」と呼びたい気がする。つまり、『悲歌のシンフォニー』自体が交響曲への挽歌であり、自身もまた交響曲であるというメタ構造を持つ。ただ、いわゆる交響曲をこれに求めると、確実に裏切られる。『悲歌のシンフォニー』は、和声的ミニマリズムの厳しい制約下で書かれていて、全曲を通してある気分こそ継続するものの、通常の交響曲を生命とするならば、『悲歌のシンフォニー』はその細胞核のようなものだ。
『悲歌のシンフォニー』は、「嘆きのシンフォニー」など様々な呼ばれ方をするが、これはベートーベンの交響曲第5番を『運命』と呼ぶのと同様「あだ名」であり、交響曲第3番作品36が正式名称である。この無機質な呼び名のほうが墓碑銘にはふさわしいし、次回お話しする第二楽章の内容とも呼応する。
 ヘンリク・グレツキがこれを作曲したのは1976年、初演は翌1977年4月4日、フランスのロワイヤンで開催されたロワイヤン国際現代芸術祭においてである。このときは、エルネスト・ブール指揮、南西ドイツ放送交響楽団、ステファニア・ヴォイトヴィチ(ソプラノ)によった。
 初演後しばらくは、この交響曲は謎に包まれた作品であった。つまり、名前のみ知られているという存在だった。
 潮目が変わったのは、作曲から15年を経た1992年に新音源が発売されてからである。ホロコーストの犠牲者の追悼として喧伝されたその音源は、ドーン・アップショウの歌唱とデイヴィッド・ジンマンの指揮、ロンドン・シンフォニエッタによるものであり、発表されるや、世界規模で商業的にも成功し、100万枚以上の音盤が売れ、存命中の20世紀音楽の作曲家による交響楽としては異例の売り上げとなった。
 評論界でも成功を収めた。私事になるが、私は新聞のレコード評でこれを知り、当時ドーン・アップショウの追っかけをやっていたこともあり、レコード屋に走ったわけである。
 グレツキは自作について、「おそらく人々はこの楽曲に、自分が求めているなにかを見出しているのでしょう。ともかく私は、人々が見失っていたなにかを言い当てられたのです。私は自分が、人々に求められていたものを直感的にわかっていたのだと感じています」と語っているという。
 ただ、グレツキは、この成功を繰り返すような作品はつくらず、商業的な報酬を求めて作曲したりすることもなかったことを言い添えておく。
 グレツキは、パリでの留学時代と、短期間ベルリンに滞在した時期を除けば、生涯のほとんどを南ポーランドで過ごした。

「どうか泣かないでください」0923 

『悲歌のシンフォニー』は、第一楽章、第二楽章、第三楽章にそれぞれ歌を持つ三章構成である。 
 第一楽章の歌は聖修道院の哀歌で、15世紀のものだ。「私の愛しい、選ばれた息子よ、自分の傷を母と分かち合いたまえ」で始まる。聖母マリアの嘆きなのだろう。
 第二楽章の歌詞は、ゲシュタポ収容所の壁に書かれた言葉である。

 お母さま、どうか泣かないでください。天のいと清らかな女王さま、どうかいつも私を助けてくださるよう。アヴェ・マリア。

 その下に、「ヘレナ・ヴァンダ・ブワジュシャクヴナ、18歳、1944年9月25日投獄される」と書かれていたという。
 第三楽章の歌詞は民謡からとられている。この民謡は、シレジア蜂起の際に息子を失った母親の嘆きにもとづいている。

 私の愛しい息子はどこに行ったのか。人でなしども、私の質問に答えなさい。どうして私の息子を殺したのか。
 この老いた目を泣き潰しても、息子は生き返りはしない。
 神の花よ、一面に咲いてください。せめて息子が楽しく眠れるように。

「人でなしども」はドイツ(厳密にはプロイセンの軍事組織)、「私」も「息子」もポーランド人である。シレジア蜂起は、1919年から1921年の間に三度起きている。
 これらの歌は、すべて哀歌(悲歌)である。ヘレナの言葉は祈りであるかもしれないが、それでも哀歌である
『悲歌のシンフォニー』は和声的ミニマリズムの極北と言っていい厳しい音楽的な制約下で、音はほとんど生命的な躍動を感じさせず、だがそれでも生命であり続け、そこに一筋の、ほんの一筋の光のようなドーン・アップショウの歌唱がたち現れる。
 前回、「おそらく人々はこの楽曲に、自分が求めているなにかを見出しているのでしょう」というグレツキの言葉を紹介したが、私は、この「なにか」を、絶望の果ての果ての果てに立ち現れる一筋の希望であると考えたい。
 そうして、生硬な政治性を持つ人間であれば「絶対にあり得ない!」と言い、絶対に許さないことを承知で申しあげれば、ヘレナ・ヴァンダ・ブワジュシャクヴナの祈りを、イスラエルが空爆したガザの小児病院で亡くなった子どもたちに捧げたい。
 民族的には敵同士であり、宗教も異なることをも百も承知のうえで、しかも、祈る神を持たない自らをも省みず、そう言いたい。
 国家、民族、宗教。もしかしたら、いずれ経済すらもこの範疇に含まれていく気すらするが、こういった私たちを地上に繋ぎとめるものを一つひとつ無効にしていくところにしか、一筋の希望が開花する土壌はないのではないか。そういう気がする。
 なかなか無効にはできないかもしれない。けれども、せめて、私としては、無意味に国家、民族、宗教を強調することはすまいと思う。こちらなら、個人の資格でもできる。
 自分の意見の後にこの人の話をするのは気がひけるのだが、ダニエル・バレンボイムは、まだ、イスラエル人、アラブ人の子どもたちのための音楽のワークショップを続けているのだろうか。こういう地味な活動の先の先の先にしか、和解の道筋は見えないと思う。Wikipediaのダニエル・バレンボイムの項のなかの「パレスチナ問題をめぐる言動」は感動する。

この長谷川眞理子さんは、あの長谷川眞理子さんか0924

「【Live】第五六回文楽鑑賞教室0916」の回で言い忘れたことがある。「鑑賞教室」だから、「教科書」(パンフレットね)が配布されるのだが、巻頭に長谷川眞理子さんの挨拶があった。肩書は、「独立行政法人日本芸術文化振興会・理事長」というものである。
 私が知っている長谷川眞理子さんは、生物学者の長谷川眞理子さんである。何冊か著書を読んでいるが、『生き物をめぐる4つの「なぜ」』はとてもいい本なので処分できず、いまでも書庫にある。それによれば、ご専門は動物行動学、行動生態学とある。
 巻頭挨拶には、肩書をはみ出した言葉は皆無で、それを読んだ段階では、この長谷川眞理子さんがあの長谷川眞理子さんかをまったく同定も否定もできなかった。しかも、専門がまったく違う。これも、同定も否定もできなかった一因であった。
 結論を言うと、同一人物であった。毎日新聞に「時代の風」というコラムがあり、「あの」長谷川眞理子さんは常連執筆者なのだが、9月22日の同欄のお名前にその肩書があったのである。これは毎回読んでいるのだが、肩書を見逃していたものか。
 上記4つのなぜは、①至近要因 ②究極要因 ③発達要因 ④系統進化要因である。これじゃなんだかわからないので、平明に言えば、①その行動が引き起こされている直接の要因はなんだろうか ②その行動は、どんな機能があるから発現したのだろうか ③その行動は、動物の個体の一生のあいだに、どのような発達によって完成されるのだろうか ④その行動は、その動物の進化の過程で、その祖先型からどのような道筋をたどって出現してきたのだろうか ということである。私の好きな言葉で言い直せば、③は個体発生であり、④は系統発生だ。
 私は、科学者の書く文章が好きである。専門の学問で培った素養というか、そういったものがスッと一本通っている気がするからである。人文系の人は当たり外れがあるが、理系の人は当たり外れが少ない。前に、柳澤桂子さんを例に出して、庭の話をするにも、一本、科学という背骨が通っていると書いたことがあるが、これは長谷川眞理子さんにも通じることである。
 独立行政法人日本芸術文化振興会理事長(長いね)のお仕事のほうも、スッと一本背骨を通して、がんばっていただきたいところである。
 毎日新聞9月22日の「時代の風」の最後のパラグラフを紹介する。

 昨今、インバウンド対応など日本文化を「売り」にしようとする動きが多い。しかし、文化とは、ある集団が独特の環境の中で長い歴史を経て育んできたものだ。普遍的に良いものなどない。単なるエキゾチシズムではなく、何がどう貴重なのか、売るためには考えねばと思う次第である。

 この最後のパラグラフを、ただただ日本礼賛の、低劣なテレビ番組をつくっている制作者に是非聴かせたい。ここでは、生物多様性を重視するという生物学者としての背骨が、無理なく文化の多様性というところに接続しており、しかもご自分の職掌をきれいに踏まえている。こういう明晰な文章が、私は好きである。

 
『潮来笠』が脳内で鳴り響く0925

 皆さんは、頭のなかでなにかの音楽が鳴り響くということがないだろうか。私にはある。正確にはあった。特に激しかったのは、40~50代であった。
 朝起きて比較的すぐに、それは鳴り始める。何回も何回も、「連続再生」のように鳴る。追い出そうとしても無駄。一度鳴ると、おおむね、午前中いっぱいくらい鳴っている。もちろん毎日ではないので、それが若干の救いだった。
 自分の好きな音楽が鳴ることはない。自分の好きな音楽が鳴るんだったら、大歓迎である。再生機もなしに好きな音楽が聴けることになる。でも、一、二度聞いたに過ぎない、しかも好きでもなんでもない『潮来笠』『美しい十代』『高校三年生』なんかが主なレパートリーである。ああ、前奏も伴奏もついている。
 対処法はただひとつ、その歌を自分で歌ってしまうことである。毒をもって毒を制す。これをやると、「連続再生」の回数は激減する。数回で収まることすらある。
 問題はある。たとえ小声で歌っても、声は出ているわけだから、近くの人には聞こえてしまう。「黙読」も試してみたが、「黙読」だと効果がない。頭のなかの音と呼応する感じになるだけである。で、小さくとも、声は出さねばならない。
『潮来笠』のときはまだいい。単に、「ヘンなおじさん」である。『美しい十代』『高校三年生』だと、「ヘンなおじさん」を通り越して、だいぶ「アブナイおじさん」に近くなる。  
 当時、友人、知人等、様々な人に相談したが、「そんなのおまえだけだ」とニベもない。
 ところが、『週刊新潮』(9.26号)の「掲示板」という欄で、真梨幸子という方が次のように書いていた。

 私にはもう長いこと頭から離れないフレーズがあるのです。それは「抱きしめてやる、甘く強く」という歌詞です。昭和50年代のロックだと思います。

 この歌も、『潮来笠』『美しい十代』『高校三年生』同様、相当くだらない感じがするなあ(笑)。くだらないのが流れるんだな。
 真梨幸子さんは、「イヤミス作家」なのだが(なんだろう、イヤミスって)、「この現象」を「イヤーワーム」と呼んでいた。「銀座NОW!」で一回聞いたきりともおっしゃっているので、私に起こっていた現象に近い。まあ、名前がついているということは、そこそこの人には起こっているんだろう。友人、知人等が冷たく突き放したように、私だけに起こる現象ではなかったわけだ。ちょっと安心した。
 50代に入り、母を送り、自宅介護が終了したあたりでこの現象はパタッと収まった。
 収まってよかったよ。いま『美しい十代』を歌いながら歩いていたら、要保護の徘徊老人みたいになってしまう。

閃輝暗点0926

 閃輝暗点という「症状」は、前回お話しした「イヤーワーム」よりは知られている.

 僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。僕はこう云う経験を前にも何度か持ち合せていた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまう、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだった。(『歯車』芥川龍之介)

 私にこの「歯車」が訪れたのは15歳のときだった。割合嬉しかった。芥川龍之介と同じだ! と思ったのである。でも、あたりまえだが芥川龍之介にはなれなかったし、才能も、実のところ1/1000もなかった。病気だけ一緒でもなあ。
 ただ、一緒と言っても違うところがある。芥川龍之介ぐらい理知的になれば「歯車」が出てくるのだろうが、私ぐらい凡庸になると、ギザギザ、せいぜい「エンゼル・ヘア」のごときものが見える程度である。ただ、ギザギザ、「エンゼル・ヘア」でも、視野がふさがれることは一緒だ。周辺がギザギザ、「エンゼル・ヘア」で覆われ、視界は中心部だけになってしまう。
 10代後半には、二日に一回くらいはこれが起こり、そのころを最盛期としてだんだんと発生の頻度は落ちていったが、いまでも完治したわけではない。70過ぎて5年間で2、3度は症状が出ている。
 私はこの症状を「閃光暗斑」と憶えていた。ネットで検索してもひっかからないのでちょっと自信をなくしているが、漢字はともかく「センコーアンハン」という音は間違いない。
「国際頭痛分類第3版」(ICHD-3)では、「固視点付近にジグザグ形が現れ、右または左方向に徐々に拡大し、(中略)詳細な観察によると徐々に拡大するのが通例である」と定義されているとWikipediaにはあるが、この説明は芥川の症状よりも私のそれに近い。
 閃輝暗点は、「こういうときに起こりやすい」というのがよくわからない。それだけに、この病気を持っている人間は、いつ起こってもいいような気構えだけは持っていなければならない。特に車を運転する人間にとってはこの気構えは必須である。症状が治まるまで待てないという状況で車を運転する場合(たとえば、仕事で運転とか、人と一緒とか)、私は精神安定剤を必ず携行していた。これを飲めば、症状は30分かからずに治まる。だが、猛烈な頭痛がする。
 リラックスしているときには出ないかと言えば、そんなことはない。鍼灸の治療時というのは最大限にリラックスしているはずなのだが、そのときに出たことがある。
 その鍼灸師は、私が知っている範囲では鍼灸師として一番天才的な人で、こういう人にありがちな、スピリチュアル系の人だった。治療してもらっている最中に、「閃光暗斑が出そうだ」と言ったところ、彼は「ああ、それは天使がサインを送ってるんだよ」と軽く答えたのだった。
 

天才的な鍼灸師0927

 昨日、この人の話をしてしまったので、予定を変更して、この人の話をすることにする。残念ながら、故人である。クボヤマさんという。
 クボヤマさんは、私がつくっていた雑誌のフラクタル特集を見て、私が勤めていた会社にいきなりやってきた。「自分と同じことを考えている人がいると思って、会いに来た」と言っていた。かなり素っ頓狂であるが、この素っ頓狂のおかげで、私はクボヤマさんに会えたのである。
 フラクタルに関しては、「【Live】複雑系0405」でそれなりに詳しく書いているので、ご存じない方はご参照を。
 そのころ、私は一年に6か月(前半に3か月、後半に3か月)は月に200時間しか寝られないという生活を送っていた。よく死ななかったものだ。
 クボヤマさんは、小一時間ほど話した後、「サービスです」と言って、背中の指圧をしてくれた。非常に気持ちがよかった。帰り際、名刺をくれ、「治療院をやっているので、来てください」と言った。
 翌日から、毎日電話がかかってきた。テーマは「治療に来てください」だったが、そんな時間はないので、いい加減な返事しかできなかった。
 あるとき、「お金は取らないから、お願いだから来てください」と言い出した。ここまで言われたら仕方がない。私は期日を言い、やっとのことで時間を捻出し、彼の治療院に向かったのだった。
 彼の治療は、基本的にはお灸である。体にベビーオイルを塗り、ホルダーに収めた太い線香を患部に当てる。ホルダーのおかげで、直接肌には触れない。2時間の治療で、体がだいぶ楽になったことは言うまでもないが、帰途、靴が脱げてしまったのには驚いた。うっ血がそれだけ解消したのだろうが、血液だけでなくリンパ液などもそうなのだろう。もちろん、お金は払った。
 この会社に在籍している期間に、もう一回だけ治療してもらいに行った。彼が、「2時間寝る時間があるなら、この治療を受けたほうが体にはいい」と言ったからである。体感的にもその通りだった。
 なんで「一回」なのかと言えば、「一回」よりも「在籍している期間」に重点がある。私は、その会社をクビになったのである。
 私がその「3か月」の仕事を終え、同僚の女性社員に最終の処理を任せ、アメリカに出張に行っているときに、その女性が些細なミスをしたのを経営者連中は大騒ぎし(恥ずかしいミスではあるが、誰が困るというミスではなかった)、彼女をかばった私を経営者は解雇したのである。
 私の母親になにか用事があって電話し、ついでに「クビになったよ」と言ったら、母は「よかったな」と言った。会社を辞めたことに対して「よかったな」などと言う人ではないので、どう対応していいかわからず、黙っていたら「あのまま仕事を続けていたら、早晩死ぬと思ってたんだ。子どもが小さいのに、しょうがねえなあと思ってた」と続けた。そんなの早く言ってくれよと思ったが、「どうせ言ったって聞かないと思ったんで、黙ってたんだ」と続けたのである。まあ、そうかもね。母は、人の生き死にがわかる、けっこうスピリチュアル系の人だったのである。
 そう言えば、クボヤマさんは、一回目の治療のとき、「漢方では、これは死んでる体です」と言っていたなあ。
 まあ、クビになったおかげで、私は死なずに済んだわけである。

クボヤマさん0928

 私が元の会社をクビになり、すったもんだのドッタンバッタンがあり、同僚数人と会社をつくり、主な業務を引き継ぐ形になった。多少は仕事も楽になり、クボヤマさんの治療院にも、通える余裕ができた。
 クボヤマさんは天才的な治療師だった。
「ツボは在るものではなく、できるものだ」というのがクボヤマさんの口癖だった。だから、この人の口から、私は、「ツボ」「経絡」といった言葉をほとんど聞いたことがない。これは、素人ながら、私にも実感できる。
「ツボ」は移動する。私の経験から申しあげれば、「ツボ」「ツボ」うるさい治療師は、たいがいヘボである。ヘボが言い過ぎなら、形式主義者である。私らが生きているから「ツボ」がたち現れるのであって、我々の体が「ツボ」に沿っているわけではない。
 私は共通の知り合いに「あの人は、自分の手がやってることを、自分の脳ではわかってないよ」とよく言ったものだ。これは営業妨害になるので頭文字で言うが、Pという肩こり関係のグッズを製造販売している会社の会長も、クボヤマさんの患者だった。会長によると「あんなもん(=P)効かない」そうだ。
 長嶋茂雄さんが、打者にアドヴァイスをしているところをテレビで見たことがある。長嶋さん「ダーッと来たらガーッてやって…」などと言っていたが、この説明は、長嶋さんじゃないとわからない。
 クボヤマさんの治療原理も、似たところがあった。
 クボヤマさんをスピリチュアル系と言ったが、クボヤマさんは、よく「受ける」という言い方をした。こちらの体の悪いところと、なにがなしシンクロし、「引っ張る」ようなことなのだろうと思う。
 一度、私の治療中に泣き出してしまったことがあったし、治療中に昏倒してしまったことも一度ある。それだけ「受けて」いるんだろうと思う。
「受けて」しまったものは、滝に打たれて流していた。クボヤマさんの治療院から一番近い滝は、高尾山にある。早朝、よくそこへ行って滝に打たれていた。私も何回か誘われたが、私はそっち方面(スピリチュアル系)は鈍い。丁寧にお断りした。
 後年、私はツノダさんという治療家(整体)と仲良くなり、この人が毎日のようにプールに行っているので、「アースですか?」と聞いたところ、「なんでわかるんですか?」ということになった。ツノダさんはつのだじろうさんの甥っ子であり、つのだじろうさんは、『うしろの百太郎』を一読すればわかるように「見える」人である。その甥っ子だから、彼もスピリチュアル系の人なんだろうと思う。
 クボヤマさんは、私が母の介護をやっている時期に亡くなった。
 生前、「死んだら、高尾山の滝が見えるあたりに散骨してほしい」「お経はいらないが、フォーレのレクイエムをかけてほしい」と常々言っていたので、私は風邪の市販薬「ルル」の空き瓶を持ってクボヤマ邸に行き、ご母堂のお許しを得て、お骨をいただいてきた。お骨を入れた瓶を常にポケットに入れておき、ポッと暇ができたときに高尾山の滝に行き、散骨してやろうと思ったのである。

高尾山行きはおおごとになった0929

 お骨を一部でもいただくには、理由を説明しなければならない。ご母堂には、「クボヤマさんは、常々、高尾山の滝が見えるあたりに散骨してほしいと言っていたので」と説明した。ご母堂は、「じゃあ、お墓に収めるのはだめですか?」と聞いてきた。私は、「それは収めたほうがいいですよ」とお答えした。どうせ、本人にはもうわからない。
 次にご母堂がおっしゃったことは、私にも影響があった。「高尾山に行くときに、私も一緒に行ったらだめですか?」とおっしゃったのである。「だめです」ってわけにいかないでしょう。この人の息子さんなんだから。
 で、「いいですよ」と言ったのだが、ご母堂、患者のおばさん、若い衆3人、そして私と、最終的に「ご一行6名さま」になってしまった。若い衆は、クボヤマさんの弟子みたいな人たちだ。私も面識はあった。
 こうなると、「何月何日小雨決行」みたいにならざるを得ない。つまり、出来心で時間があるときに散骨に行くというわけにはいかない。
 しかも、私は母の介護期間だったんで、祝日しか休めない。土日は、母の介護で、朝から晩までびっしり詰まっていたのである。祝日は、ヘルパーさんが来てくれるので、昼間は手があけられる。よって、五月の連休中の一日が決行日になった。
 ところが、である。
 五月の連休で、お天気がいい日の高尾山って、渋谷、原宿並みとまでは言わないものの、相当な人出なんだね。滝のあたりには、人が連なって歩いている感じだった。さあ、困った。
 私は若い衆2人に命じ、滝がよく見えるロケーションの前後に派遣した。シキテンを切らせたわけである。「人が途切れたら口笛一回、来たら二回」を合図にした。「三回口笛吹いたら、ここまで急いで戻っておいで」。彼らにも、たとえ一瞬でも儀式に参加してほしかったのである。
 フォーレの『レクイエム』は40分程度なので、とても全曲は無理。お線香は立てた。一本だけだったけど。
 まあ、辛うじてクボヤマさんの希望に沿ったかっこうにはなった。
 私は、かなり若いころから、自分のときには葬式もお経もいらないと思ってきた。親鸞みたいに、「野っぱらにうっちゃって野犬に食わせてくれ」は無理としても、焼いた後は燃えないゴミで出してくれとか、砕いてニワトリのエサにしてくれとか思っていた。これができないのは、「墓地埋葬法」という法律があるからである。
 私らがやった行為は、その第4条「墓地外の埋葬等の禁止」の「等」に抵触する可能性がある。
 でも、まあ、お骨だし、それもごくごく一部だし。だいいちもう時効だろう。

「掃苔記」1030

「掃苔記」は、滝野隆浩という人が書いている毎日新聞のコラムである。毎日曜日の掲載のようだ。滝野さんの肩書は、専門編集委員である。この人のお母さんの話―帰省して面倒を見たり、施設に入れたり―をよくしている。
「掃苔」は、読んで字のごとく「苔を掃除すること」であり、墓参りの言い換え語だろうと思う。
 9月29日の「掃苔記」に登場した八木澤壮一東京電機大名誉教授は、火葬学(そんなのがあるんだねえ)の泰斗で、全国の自治体から依頼され、火葬場づくりに関わってきたという。その八木澤さんが、「火葬後は自由だ」と言い切っている。コメント部分を抜き書きする。

 皆同じ形の葬送はもう、できなくなっている。だから自分で考えればいい。とても自由で、いい時代になったんじゃないですか。

 滝野さんには、前回にお話しした「墓地埋葬法」にもぜひ触れていただきたかった。たぶん、この法律はいまでも有効で、それであるからこそ前回申しあげたように火葬後は燃えないゴミで出したりできない(たぶん)わけなのだろう。いや、意外とできるのかも。でも、少なくとも私は、そういった記事をどっかで読んだ記憶は皆無である。
 意外と知られてないことだが、火葬後のお骨を墓地に収める規定はない。つまり、自宅に置いとく限り、いつまで置いておいてもいい。つまり、こういうことに関しては、私らは知らないことだらけである。
 今回の「掃苔記」は、テーマがそのあたりではなく、都内の火葬料金が高いというところである。
 これの一つの要因は、明治政府が道路や港湾の整備で手一杯で、公営施設への予算が足らなくなり、東京区部ではそれまでの民営火葬場がそのまま存続したというところにあるようだ。
 これに関して、八木澤さんは同記事で、「火葬費は公共料金と言っていいのに、都区部では民間会社が決めている。都営の火葬場をもっとつくるべきです」とコメントしている。
 いずれにしても、ここまででわかるのは、普通に暮らしている普通の人は、葬式も火葬も、自分が主となって取り仕切るのはせいぜい数回のことなので、あまり深刻に考えず、やり過ごしているので、こういったことがわからなくなっているということである。こうなると、専門家と称する有象無象が跳梁跋扈することになる。
 それでも、樹木葬、散骨等々、選択肢は広がってきており、燃えないゴミで出したり、前回お話ししたようにニワトリに食ってもらったりするのも、もうすぐなのかもしれない。
 

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