昭和的実録 海外ひとり旅日記 予測不能にも程がある トルコ編 01
(この記事は誤って削除してしまったものを復活させたものであり、内容は以前の 昭和的実録 海外ひとり旅日記「予測不能にも程がある トルコ編 01」に同様です。あしからずご了承ください。)
日記_001 初めての英語が虚しく響く
20/mar 1978
13:15 PIA753便
Haneda---beijin
---Isramabad
PIA703便 乗換
---Theheran---
初めての海外旅の始まりは、羽田から途中北京で1時間のトランジット。
セキュリティもなさそうなのでちょっと外の空気を吸いたくて、ターミナル入り口周辺を散策。
褐色の平原に灌漑用水が整然と穿たれ、人民公社だろうか、規則的な建物の配列が中国らしいか。
仕事から解放された夕刻の気だるい時間の中で、母親を待つのか父に連れられた子供が巨大な毛沢東の写真を毅然と見つめているのである。
次のストップオーバーパキスタンのIsramabad(学校ではRawarpindiと習ったが・・)での飛行機乗り換えが、さっそくのことの始まりであった。
乗り換えのため降ろされたタラップは滑走路上であった。
外は薄暗く、どす黒い飛行機の腹からは数人の男たちによって荷物・バッグが放り出されていた。(そんなに無下にしないでよっ。)
そして積み替え用のトレーラーのヘッドライトが暗黒の中に確かに自分の白いバッグを映し出していた。
“Transfer my bag, to that airplane ! 初めて使う実用英語がこれで、滑走路中に響くかと思われる有りっ丈の声を張り上げては、(英語を使うのに多少の気後れがあったのだが、何か忍び寄る不吉な予感が大声にさせたのだ)何度も何度も20M程先の乗換用飛行機であろうを指差したものだった・・。
そしてやっぱり荷物は、乗り換えた飛行機と一緒にはイスタンブールには着かなかった・・・。
21/mar 旅の第一歩
06:15 Istanbul着
羽田を離れ24時間後、イスタンブール(アタチュルク)空港に着く。
搭乗時間は18時間と案内されていたが、どうやら現地時間と日本時間のタイムテーブル記載によるズレだったのだろう。(好意的解釈)
PKエアーとの当然のクレイムタグ一悶着のやり合いのついでに仕入れた空港からの脱出情報は、次の行動にすぐ役立つことになった。
(タダでは終わらせまい。)
次なる行動とは市内までの交通機関を探すこと。その前に取り敢えずExchangeで、当分は不要だろう日本円1万円を両替する。
PKエアーでは市内まで乗合タクシーを進めていたが、おそらく高い。
ロビーの周りを見渡せばコワモテで頑強な髭面の男たちが我鳴っているエリアがある。
いかがわしく怪しいモノには必ず裏もあればイイこともあるものだ。
その集団の真っ只中に思いっきり分け入り、そして旅慣れてる風に”Aksarai? How much?”を連呼してみる。
しかし旅には不慣れと見透かされたか一人の男に袖口を掴まれロビーから引き摺り出され、乗合バス(Dolmuşドルムシュと言う。)の行き先札を指し(これに乗れ)と急かされたものだ。 ーフウー 。
別に停留所があるわけでもなく手真似で降ろされた所が、Aksaraiか。
イメージしていたよりヨーロピアンで坂道の石畳がやや意外な印象。
とにかくグルッと一周見渡して深呼吸。
(これが俺の旅の第一歩だ、落ち着こう。)
そう言えば日本を離れてからクレイムタッグもあって2日間歯も磨いていない、時差にもよるのか頭も多少上の空。(先ずは早めに今日の宿を決めておこう)
本来ならこの坂に重いバックパックを背負っての道のりはキツかったに違いないのだろうが、幸運にも?今は小さなサブバッグ(パスポート・お金など大切なものは全てこの中にパックしていた、ラッキー!)のみなので手軽な分、気持ちは何とか維持している。
日記-002 ドイツマルクを知ってるか
突然声を掛けられた
不意をつかれたこともありしばらく無視を決め込んで足を早めたのだが、相手は片言の英語を交えて執拗に後をつけてくる。
男は前に回り込んだり、時にはジャケットの袖を引っ張っては、懇願するような表情で縋り付いてくる。
余りの執拗さに大声で拒否を示し足を早めるや、男は姿を消したようだ。
しかし動悸を抑える間もなく次の路地に差し掛かると、再び男が現れると今度は無言のままそっと差し出す手には、見慣れぬだが美しい紙幣らしきものが握られていた・・・。
大きな十字路に出ると正面に”Hotel TURA”の看板が飛び込んで来た。一流でもなく場末でもない風情のその外観が、重い体に快く決断させ(助かった!)、この旅の最初のベッドに誘ってくれたのだ。
そう、先払いの宿代をトルコリラで済ませた後の財布には、美しい50マルク紙幣が初々しい色を放ちながら愛おしそうに収まっていた。
コラム_01 Turkey Istanbul
Istanbulはごった煮の街だ。
あらゆる人種が集まっているようで、さすがアジア・ヨーロッパの交差点と言われるだけある。
工場のような施設はあまり見当たらず、通りはマニファクチャーな生活品を作る店先が通りを狭くしている。
しかしモノ作りというよりは有形・無形に限らず、「捌く」ー 取引の街と言われてこそIstanbulの真骨頂なのだろう。
だから街には商売も溢れかえっていて、食べ物は勿論のこと、得体の知れぬ雑貨や明らかに壊れたガラクタを売る露天商、体重計り、タバコ売り(10T.lのモノが12.5〜15T.lで売られている。)、セーター売りから掃除屋etc.まであらゆるモノが商売で成り立っている。
そしてそれらの売り手はかなり若そうに見える。失業が多いのだろう、というより、雇用がないのだそうだ。
だからチャイの店には老若男女(女性はいない)が終日入り浸り、OKやカード・すごろく様のゲームで喚きあっている光景が 、日常なのだ。
22/mar 美しい50マルク紙幣
荷物は何もないのだからホテルのチェックアウトは簡単に済ませ、ホテルを出たところのチャイハネで朝食にと、ほどけたチーズが挟まったリーフパイ状のパンに、べっとり甘いチャイ3杯、しあわせが染み出すようだ。
残り少なくなったトルコリラに気づいて、
(そうだ、昨日はあの男にメチャメチャ追い回されて、結局見たこともない50マルクやらと交換したんだっけ。
確か急にトルコを出なきゃならないからドルと交換してくれって言ってた。ドルがなければトルコリラでも良いとも。トルコを出る奴が何でリラが必要なんだ?
本当にしつこかったのには根負けしてしまったが、後でホテルフロントで聞いたレートより安い両替で儲かったんだから、まあイイか。
銀行を探す
カウンターの男はいつも通りの流れ作業の振る舞いのようにその50マルク紙幣を受け取ると間髪入れずに別の女性銀行員に目配せをし、すると彼女がすかさずチャイを運んで来てくれ、そしてしばらく待つよう椅子を案内してくれたのだ。
(親切だな、外国人には特別扱いか、この習慣はとってもいい)。
・・??・・突然 戦慄が走った!
・・・(えーっ、公道上で両替なんて、イイんだっけ!)
・・・・冷や汗が溢れ、頭に血が上った。
とほぼ同時にどこかで観たような映画のワンシーンが再現されることと
なった
・・・・・制服の男が現れ、俺の額の前に
黒い手帳を差し出したのだった・・・・・・・。
・・・・・・・・
どう移動したのかその後の顛末は思い出せない。
警察の取調室らしき部屋で、机の引き出しがガーッと開けられるとその中には明らかなドル札がギッシリとクシャクシャになって詰められていた。
「昨日見つかったニセ札だ」署員の片言の英語がヒッチコックの映画のワンシーンのように頭の中を螺旋した。
(あんなにも精巧で美しかったマルク紙幣がニセ札っ!
大規模なヨーロッパ偽造団暗躍か!)
・・・やばい!Ambassador!
・・・・ Call the embassy ! ( , please. ) ・・・・・。
朝10:00から警察におよそ6時間、領事館S氏が到着。
本来は拘束だが領事館の保護ということでMarat 署長の取り計らいで釈放。明日裁判で、9:00再訪となった。
領事館S氏に500TL拝借。(そう、手持ち無し・・・)
コラム_02 一日はçayから始まる
トルコはどこへ行っても、何をするにもチャイがなければ始まらない。
朝起きてから日常の節目は勿論、人に会う、買い物をする、口論をする、驚いたのは銀行でカウンター向こうの職員たちがまだ始業間際のチャイを楽しんでいた時刻に飛び込んだ俺にチャイが3杯振る舞われたことだ。
(まだ始業してません)
(どこの国から来たの?)
(じゃあそろそろ始めましょうか?)
チャイが饒舌に語りかけてくる。勿論無料である。
しかもこの振る舞いは場所を選ばない。通りの5軒に一軒はチャイハネ(チャイの喫茶店)だし、広場に至ればキオスク様の屋台が10mと離れず出現するし、何と言っても指笛・手まねきをしさえすれば雑踏の何処からともなく出前トレイを持った少年・若者が間髪入れる間も無く熱々のチャイを出前してくれる。
この時期イスタンブールは雨季のようで午後になると、シトシトと冷たい雨が降る。
それでも紅い花柄のソーサーを纏ったチャイは、
まるでワルツを踊るかのような軌跡を
いつも街に描いている。
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