俳句の源流を歩く|酒折の歌(最終回)
さて、彼女が出て行ってから九夜十日。音沙汰もなく不安ばかりが募る中、俳句を並べて気を紛らわせている。
と言ってもそれは他愛ないもの。他人にとっては、意味をなさない駄句のかたまりだろう。けれども、ある人が言っていた。
「披露する目的で詠んでは駄目だ。」
ヤマトタケル以降の日本は、柿本人麻呂も言うように、「言霊の幸はふ国」。言霊の結晶である「歌」が、一己の幸せを導くところとなったのだ。
歌をうたえば、世界が現れる。神々が歌って天下を生み固めた時代は過ぎ去り、その響きを宿した言霊を秘めて、時空は、全き宇宙に漂う。そして人々は、生みの苦しみをなぞりながら、ここに個々の希望を歌うのだ。
だから僕は、人々が言う「美」が、絶対的なものだとは思わない。美とはむしろ、魂が司る言葉によって発見される言霊の閃き、つまり、宇宙の一側面だと考える。
今思えば彼女は、僕との共鳴を「美」に期待したのではなかったろうか。何者にも口出しできない絶対美を夢想し、僕との繋がりをそこに求めたのではないかと…
顔を上げると、向こうに富士山。なだらかな裾へ目をやれば、張り付いているのは夏の雲。嗚呼、あの下を彼女はさまよっている…
東京は干天。この灼熱地獄から発信するメールは、そのまま蒸発してしまうかもしれないと思いながらも、今日もボタンに指を置く。
縁台に美酒を寝かせて待っている[送信]
(第16回 俳句のさかな「酒折の歌」了)