だから僕は他人の為に書くのをやめた。
新幹線に乗っている。
明日開催される文学フリマ京都の遠征のためだ。
小田原駅を出てしばらく経ち、北の峰に新東名と東名の高架が見え、雲に隠れた(大抵この付近を訪ねると隠れている)富士山が主張をし始めたので、まあ静岡のそこらへんなのだろう。
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今、僕は小説を書いている。
このたった一行を記すことができたことに、僕は僕の感じる以上の嬉しさを抱いている。
とても、とても。
昨年の今頃は、創作に関してほぼ潰れていた。
一昨年はどん底。
三年前は? 書けないことから目を背けて無理やり書いていた。と思う。(あまり覚えてない)
そんな僕が、小説を書いている。
そして恐ろしいことに、自室にいるとき、
noteを書くよりTwitterにのめりこむよりゲームに興じるより、なんと発起することもなくGoogleドキュメントを開き、小説の骨と肉を書いてしまっている。
これは狂った事態であると言える。
家で自発的に書いていたのは、自分の部屋にMYパソコンがやってくる前の話、すなわち高校時代にまでさかのぼる。
10年以上も昔の話だ。
大学に入ってからは、もちろん家で書くこともあったものの、基本的に大学のパソコンであったり学食であったり、あるいは講義中(これは中高時代からそうだけど)であったりだった。
家のパソコンは、ゲームや動画をするため(あと製本したりイベント用告知物の編集も、ときどきね、するため)のものになりつつあったわけだ。
図らずも高校時代の自分に戻ってしまったかのような心地で、今日もシーン9/40の仔細を打ち込んでいる。
どうしてこんな異常事態になってしまったのだろうかと、書く合間に考えることがある。
正直、考えるだけムダな感じもある。自分を客観的に視ることが苦手なのだ。でも、なんとなく思い当たる節はある。
簡潔に言えば、僕は表現者でこそあれ、芸能者ではなかったことを受け止められたからだと思う。
思えば昔からそうだった。
僕のことを紹介する他人の言葉は、それはそれは面白そうな人間だと錯覚させるものばかりなのだけど、勘違いして調子に乗って面白いことをすると、ほぼ間違いなく滑る。それが僕だ。
エンターテイナーは僕を語る周りの人たちであって、僕はただの表現者にすぎない。これは事実であると同時に一種のコンプレックスであり、脅迫であった。
他人が面白おかしく脚色したところで、僕自身はなにも変わらない。脚色がバレて、僕という人間が「つまんねー男」であると思われたら、相手は幻滅するだろう。
実際に僕は幾人かの知り合いに幻滅されたことがある。その反動は凄まじいものであった。
きっとその人は、夢から醒めたような心地だったろう。
数々の伝説を残し、徳が高く、高貴で情に篤いとされる人間の仮面が一枚一枚が崩れ落ち、
残るのは卑怯でクズで蔑まれ疎まれるべき、大した収入もなく生活も不安定で放浪癖の浪費家で向こう見ず、躁鬱の激しい独身中年男性だけが残るのだ。
なんだ、私が慕っていたのは、こんな人間だったのか、と。
僕は、罵っても誰も咎める道理のない人間、フリー素材サンドバッグだ。
そして僕は、自衛する手段を持たない。
今まで僕を守ってきたのは、他人の語る僕の虚像であるからだ。
僕に必要だったのは、その虚像があたかも実像であるかのように振る舞い演じること、つまりエンターテイナーとしての資質であった。
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新幹線は速度を緩め、名古屋に停車する。通路には降りる乗客の列で埋め尽くされている。
一方座席に残る人はまばらで、僕と前のシートの二人と、他にも点々とあるだけ。
そうか、名古屋で下りる人、結構多いのだな。
空に厚い雲がまとい、もしかしたら雨が降り出すかもしれない。
傘は持ってきていない。
必要ないと、僕は信じている。
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さて、僕はエンターテイナーを望んだが、なれるはずもなかった。
僕は表現者であり、それ以上でもそれ以下でもなければ、目を背けて別のものの振る舞いもできないのだと悟った。
他人の心を揺さぶれない表現者は、果たしてなにを表現すればいいのだろう。
僕は誰のために、なにを見せればいいのだろう。
なにを遺せるのだろう。
そう考えて、僕は当たり前の事実に到達した。
僕は、他人のためにはなにもしてやれない、のだ。
できることと言えば、自分のことだけ。
考えてみれば、自分のために小説を書いたのは高校時代以降、ほとんどなかったと言っていい。
自分のことを書いた小説はあった。けれど、それは恥部を「他人」に見せつけるための代物であった。僕自身のために書いたものではない。
そうなのだ。
であるならば、今まで積み重ねてきた「ものを書く」という能力を、自分のために使ってやってもいいのではないか。
今までずっと、僕は書けずに苦しんでいた。
書けたとしても、魂までは籠められないのだろう、と。
他人のために書いていたからだ。
僕は、僕のためのものを書く。
哀しい思い出も、苦しい思い出も、選択を誤ったと悶えたくなる思い出も、そしてそのなかにある、あの頃はよかったという思い出だって。
自らの傷を舐め、頭を撫で、甘やかし、激しく裂傷させ、悔いなく果てるため、
僕は僕のために書いてもいいのだと気づいた。
たとえ僕のため以外のものが書けなくなったとしても。
そう考えられるようになったら、不思議と上体部に癒着してこびりついた重みが失せたような気がした。
思えば、他人が喜ぶことなんて、なにも分からないのだ。
もちろん声の色や表情や、あと口振りから、僕がいかなる振る舞いをすれば円滑に物事が進むのか程度は(自分でなくともこんなの誰だって)理解できる。
けど、他人のために自ら進んでなにかをしたり楽しませたりするのは、例えば恋人の誕生日プレゼント選びなんかは、相手に欲しいものを尋ねるという根本の部分から、本当に、どうしようもなく苦手なのだ。
その恋人がいたのも、今は昔の話であることからも、僕という人間をあらわしてるように思える。
そんなわけで、僕は今、新しい小説を書いている。
「今のところ」順調に進んではいるものの、とても長い物語になることは避けようがないし、避ける必要性も感じない。僕は僕を愛せないが、せめて自分のために書く小説だけは、丁寧に書きたいと考えている。
おそらくライフワークとなるだろう。きっと全16巻、そのどれもが分厚いものになる。
でも、第1巻はできる限りはやめに、今年中には刊行できるよう、進めている。きっと。
少し前の自分だったらここで「僕のために書いた小説を、果たして他人が読んだらどう感じるのだろう」などと考えただろう。
でも、今はそんなことすら「振る舞い」なのだと感じる。そんなことにかまけてる暇があるのなら、真剣に小説と向き合ったほうが、いいものが書けるのは自明だからだ。
他人のことは書き終えてから考えればいい。今は、僕自身という読者を楽しませることに、全力を注ぐことにしたい。
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車窓を覗くとしばらく降っていた雨が上がり、陽の光と住宅の長い影が田園地帯に伸びている。
京都は間近だ。
明日の文学フリマ京都でも、僕は書き続けるだろう。
不誠実にも見えるけれど、今の僕にとっては、これが精一杯の誠実だ。
僕はこの至福を噛み締める。
待ってろ、みやこめっせ。