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Masculinity+ Transmen= Masculinities男性学の新展開

11000字超えて長くなってしまいました。この記事でのテーマは3つです。

・男性学のまとめ

・トランス男性は男性です?

・フェミニズムとの付き合い方

よろしくお願いします。


1、男性学の分類

その是非は置いておいて、フェミニズムは一人一派とまで言われることがあります。でも、マスキュリズムは?男性学は?ひたすらに消極的な意味で、一人一派どころか、男性学って何ですか、そんな言葉は聞いたことない、と煮詰まりそうですよね。男性をジェンダー化された存在として捉え、権力関係やジェンダーについて男性性の視点から考える学問が、男性学です。一応、男性学のなかでも分類可能なほどのバラエティはあるようです。

以下の分類はかなり古いものですが、現代の運動においても有効かと思いましたので、そのまま参照します。

『男性学入門』(伊藤公雄,1996)より

1970年代以降のアメリカの男性運動についての記述がありました。
K. クラッターボウ『男らしさをめぐる現代の展望』による分類では、以下のようなタイプに男性学は分類されています。(とのことですが、原文は見つけ出せませんでした。)

①「女性問題」を自分たち男性の解放と重なる問題だと考える「親フェミニスト派」
②古い〈男らしさ〉の復権や強化をはかる「保守派」
③現代社会における男性の相対的な権利剥奪状況を批判し、ときに女性の主張を男性に対する“逆差別”だと糾弾する「男性の権利派」
④男性性の危機を、男性原理の不全状況に求め、その回復を追求しようとする「精神主義派」
⑤男性問題をマルクス主義的な問題関心から分析しようとする「社会主義派」
⑥現代社会における「ヘテロ」(異性愛)強制の問題性や「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)の構造を批判する「ゲイ派」
⑦男性問題を人権問題と結びつける「ブラック・アメリカン運動」


①新フェミ派の代表人物としては、マイケル・キンメル氏とワレン・ファレル氏が挙げられています。ただしキンメル氏はセクハラやトランスジェンダーへのミスジェンダリング等での批判があったようですから、そこには個人的に注意していたいと思います。

そしてファレル氏は元々フェミニズムから始まったとはいえ、次第に“男性(だけ)の権利”派に近づいている気配があるらしいので、そのことをよく留意した上で原書に当たりたいです。ファレル氏の『男性権力の神話』は、男性差別にはこんなものがある、実態はこうなんだぞ、というデータが沢山紹介されている、”男性差別”の可視化に大きな影響を与えた本です。
訳者の久米泰介氏はフェミニズムから派生したような男性学を提唱している人ではありませんから、読みようによってはとても「男性(だけの)権力」を主張しているように映りました。

私の立場は明白で、一般に名指されるところの「女性差別」「トランスジェンダー・非ヘテロ差別」を体験してきた身でもありますから、①新フェミニスト、⑥ゲイ派、の視点で男性学の導入を図っていることは間違いないでしょう。客観的視点に欠けていますし、男性学を語る上で想定されてきたような「男性」だけの視点には最初から立っていない分、アンフェアかもしれません。年配のシスヘテロ男性をメインターゲットとした既存の“男性学”では社会全体はともかく、私個人に対してはほとんどなにも解決をもたらしてくれないようです。まったく想定されてすらいないようですし。「親フェミ的な男性学」にしろ、「フェミニズムと無縁な男性学」にしろ、そこで語られる「男性」像のなかに私はまずもって含まれていません。どちらも同じく距離があるという点で、同じようなものなのです。無理やり立場を仮定してどこかに己を位置付ける作業は、自身を女性と仮定してフェミニズム内でも試みてきたことと同様に”出来なくはない”でしょうけれど、やはり根本的な話は何も出来ないのだと思います。


そしてもう一つの関心といえば、⑦ブラック・アメリカン運動、です。まず、アメリカの選挙権の歴史を振り返ってみましょう。

1820〜40 男子普通選挙(白人のみ)
1848 セネカフォールズ会議

1870 憲法修正第15条 黒人参政権←南北戦争後、黒人奴隷制の廃止
1920 憲法修正第19条 女性参政権

1965 投票権法(人種差別を禁じ、黒人参政権の実質化)

つまり、黒人男性は「男性であるにもかかわらず、男性に与えられるはずの選挙権が与えられなかった」わけです。あまり安易に他の属性への共感を示すべきではないとわかっていても、ここにはトランス男性が共感したくなる要素があると思いました。名目上は黒人参政権の方が先で、女性全般への参政権はもっとさらに後の成立になっています。実質的に人種差別を禁じる「投票権法」が成立したのは1965年ですがね。ということは、「男性」である以前に「黒人」であることによって人権を阻害されていた、男性であってもとうてい想定されているような「(問答無用で一級の)男性」ではなかった、という状況がわかります。「男性像からこぼれ落ちる男性」への語りは、トランス男性の身の置かれ方に共通する要素があると言えるのかもしれません。日本で言えば、在日外国人として生活する人々のお話が、トランスジェンダーの人の話と似ている部分がある、と感じます。不当に可視化/あるいは不可視化されてきた要素そのものは異なれど、構造は似ているようです。

さてアメリカのトランス男性の話で、人種は無視できません。白人のトランス男性はその区別ならぬ差別をよく理解しているのかもしれません。「今は女性扱いで、次いでトランスジェンダー扱いで不利ではあるけれど、男性側へのトランジションが成功したのちは単に”白人(しかもヘテロの)男性”として圧倒的に有利である」という立場の置かれ方への差が、白人のトランス男性の意識には刻まれているようです。FtMエピテーゼ(擬似ペニス)にだって、人種差別は現れているのだといいます。白人用ペニスは最初から作られているにも関わらず、有色人種向けのペニスの製産は後回しなんだとか。FtMグッズ界にまで人種差別があるのだから、そりゃあ単に「トランス男性」としてセクシュアリティ(広義で、性にまつわること全般の意味合いです)がマイノリティ同士だからって、同じ条件のもとで団結できるわけではないのでしょう。黒人のトランス男性当事者の記述には未だアクセスできていませんので、それについてはじきに知っていきたいです。


上記を参考にしつつ、私個人の視点は4つの分類に根差しています。
・親フェミ......女性差別の当事者として
・ゲイ・クィア......非ヘテロ・非シスとして
・ブラックアメリカン.......二級男性と見なされる立場として
・メンズリブ......ジェンダーからの解放を目指す個人として


「トランス男性は(産まれたときからずっと)男性です」「トランス女性は(産まれたときからずっと)女性です」と言って納得するトランス当事者もアライもいるでしょう。GIDの本流や中核群として想定されてきたのも、そういった人たちだけだったのかもしれません。でも、それでは”あったはずの問題がなかったことにされる”のはまた事実であり、トランジションを「移行」として捉えることで透明化されてきた物語を救い出したい、というのが最近私が思ってきたことです。「トランス男性は男性です」がまごうことなき事実だとしても、男性性の多様性について向き合ってきたわけでもないトランスアライの方がそれだけ言うのでは不十分なのです。胸や股から出血する男性もいるのだって、知っていましたか?「強くありなさい」と躾けられる代わりに、「なんで女の子らしくできないの」と強制/矯正させられる男の子がいるって想像したことがありますか?ペニスが男性の加害性を象徴しているみたいで嫌だ、と思う代わりに、手や脚を犠牲にしてでも機能を欠くことを知っていてでも手術でソレを身につけたいと願う“男性”がいるって、知っていましたか?あなたの描く「男性」に、最初から「トランス男性」はいたのですか?本当に?「トランス男性は“男性”」でしたか?ねえ、あのとき男性でしたか。

「トランス男性の男性性は、従来のヘゲモニックな男性性とは異なるのでは?」という趣旨の論文が、英語圏では出ています。真っ当な仮定だと思います。ヘゲモニックな男性性とは、オーストラリアの社会学者レイウィン・コンネル(Raewyn Connell)氏の提唱した概念です。男性の、女性に対する支配をつくり再生産する構造のことです。日本ではサラリーマンもその一形態と見なされます。とはいえ、どういう立場の男性が支配的で覇権を握っているかはその時代や土地柄によって大きく異なります。(次回かその次に詳しく書きたいお話。今回は飛ばします)

この「トランス男性の男性性は、従来のヘゲモニックな男性性とは異なるのでは?」という問題提起は「トランス男性は男性ではない」とミスジェンダリングすることとは全く別で、(私がこうした発言をするときに単に「トランス男性は男性ではない」、それと同様に「トランス女性は女性ではない」、と言いたいがために”利用”してくるような自称フェミニストの人がいるのも確認していますが、そうした相手をすることに時間を割きたくありません。)今まで見向きもされず置き去りにされてきた「マイノリティ男性」の在り方を新たに作り出す試みとして、設けられています。
※私はこの論文が読みたくてたまらないのです。でもまずは目下の問題、「日本における男性学がどうあってきたのか」知ることに留めて(国内でも私が必要としている取り組みがあるのかもしれないという不安と期待を込めて)、一旦他国で進められているトランス男性の捉え直し方については、時間を置くことにしました。来年こそは!


2、男性差別の実態


昨今ではジェンダーの話をするときに、女性差別にスポットライトを当てることに集中しすぎて男性差別の問題を忘れているかもしれません。男性差別の詳細については、ワレン・ファレル氏(久米泰介訳)『男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』で明らかにされています。

「被害者たちは多くの場合、社会の中で最も弱い人たちである。貧しい、若い、孤児である、病気の人、高齢者の人たちである。」これをあなたが読んだとき、男性が思い浮かぶであろうか?事実として被害者の多くは貧しい男性、若い男性、孤児である男性、病気の男性、高齢者の男性なのである。にもかかわらず女性が、いや女性だけが巻頭で特集されている。(p22 )

男性が権力(特権)を持っているというけれど、実際は「使い捨てられる性」として危険な職業や待遇を充てがわれ「ガラスの地下室」に閉じ込められているのではないか、という問題提起です。自殺、過労、ホームレス、色覚障害、睾丸ガン、前立腺ガン、難読症、囚人の再犯性などなど。この本が出た頃は徴兵制が男性差別の主たる問題として取り上げられていますし、今は”戦争”の形態が変わったとはいえ、サラリーマン的生活に移って「使い捨てられる性」としての男性役割が持続している、と指摘することができます。ちなみにアメリカでは、共同親権が得られない事例も問題になっています。父親が精一杯養って子どもとの関係性をつくっていても、離婚や別居するときには母親が母親であるという理由だけで子の権利をまるごと持っていってしまう、という”男性差別”についてです。客観的な「男性の被害が多い」データがあってもなお、男性の問題はまともに取り扱われなかったり、女性に対する対策ばかり優先される、という状況の不自然さに意を呈しています。ファレル氏の語る内容は概ね上記のような事柄です。

私が気になったのは、久米泰介氏の「終わりに」の文章でした。

男性差別反対運動というのは、世界でも、日本でもまだ始まったばかりだ。しかし、男性差別をなくすということは、二○世紀が女性運動の世紀であったように、二一世紀は必ず課題になるであろう、そしてなくしていくことになるだろう。一つの理由として経済力が平等になっていき、今まで男性の経済力の高さによって相殺されていた男性差別が看過できなくなっていくからだ。
〜例えばレディースデイなどの性差別があるが、これがまだ社会的に笑っていられるのは男性の方が収入が高く余裕があるためだ。

真っ当な発言が主ですが、女性が出てきた瞬間のこのアンバランスさはまずいのではないでしょうか。まさか女性専用車両が”男性差別”だと言うタイプではないでしょうが.....(あれは鉄道会社による”女性差別”でしょう、痴漢撲滅への取り組みをサボって、代わりに女性を隔離することで問題を片付けようとしているのですから。成り立ちからして、女性への性加害が原因なのだから、そんなことがなかったらどんなに良かったのでしょう!)。
なんだか心配な記述です。

ちなみに私は映画館へ行くとき、学生時代は学割とレディースデイを使い、現在はメンズデイを使ってきているので、一般料金で映画を見た経験がほぼありません。つまりメンズデイだって存在します。映画館だけでなく、近くのクレープ屋さんでも火曜日はレディースデイ、水曜日はメンズデイ、等といった“男女平等な”取り組みはあります。
たしかに東京にいた頃、メンズデイを見かける機会は地方で暮らす今よりずっと少なかったです(地方の方が東京よりも、SDGsの「ジェンダー平等」、具体的には父親も含めた子どものプール教室だったり、オールジェンダートイレの設置、授乳室の設置、男子トイレ内のベビーチェア設置、メンズデイがレディースデイと同じくらいあることだったり、そうした取り組みが進んでいる場合だってあるのです。自分は今そんな地域で暮らしていて、ジェンダー不平等にイライラする機会が減りました)。
でもそれは、メンズデイを設置したって男性客が来ないから、つまり就業時間が長すぎて男性のための商業サービスを設けても効果がなかったからじゃないかと考えられます。なので男性の就業時間を減らす(たまに買い物するくらいの余裕を男性側にも与える。その過程で今より給料は減るかもしれないが。)ことと、メンズデイ設置は表裏一体ではないですか。男性差別を考えるとき、いつだっておかしな方向へ行くから気をつけなければなりませんが、男性差別解消を訴える先は(個々の女性である場合はもちろんあるでしょうが)、”女性全般”というよりも、企業だったり、非効率的な働き方を継承する上司や役員ではないのでしょうか。それは性別関係なく変えていくべき的である、と私は思うのですが。

親フェミな男性学の本を少しばかり読んでいても思うのですが、男性差別の構造は「男性vs女性」というよりも「上の世代vs下の世代」という、世代格差の影響が強いようです。そこを無視してまるっと「男性」で済まそうとするから、おかしな文章になるのです。若者の男性にニートやフリーターが増えたのだって、その分の正社員の役割を上の世代で牛耳っている(そう仕向けられ続けてきた経済成長期の圧力が今なお続いている)からであって、その構造に女性は直接的には関係ないのではありませんか。むしろ構造から弾かれてきたのが女性だともいえます。
これまた、『ぼそぼそ声のフェミニズム』(栗田隆子, 2019)に見るような女性の立場からしたら、職につけない・つかない、結婚できない・しない、同条件の女性だっているのに、社会は男性ばかり可視化して、女性のニートなんてはなから想定していないではないか、とぼそぼそ指摘されることでしょうし。

そして時代の変化を垣間見るのであれば、男性が異常なまでに仕事に立ち向かう必要も、徐々に減ってきてはいます。
『主夫になろうよ!』(佐川光晴, 2015, p37-38)によると、
2014年ツヴァイ(zwei, 結婚相談所) 調査では、独身男性の10人に1人が「結婚したら主夫になりたい」と答えているそうです。既婚男性のほぼ3人に1人が「主夫になってよい」と答えています。そしてまた、外での仕事を女性が担い、家事育児を男性が担うライフスタイルに賛同する女性も増えています。

 一点気になったのは、こうして男性性に新しい視点を持ち込んできているような佐川氏も、男性学の伊藤氏も、「ここは“男らしく”僕らがやってやろうぜ」と枕詞のような励ましをつけて男性を鼓舞する風潮は見られるのですけどね......。

男性学のなかで幾度も語られているように、フェミニズムが「男性全般を悪とみなして、男性の多様性を語るのをやめている」傾向がどこかにある点は否めません。問題だと思います。それは男性差別を見えにくくしてしまいます。一方で、マスキュリズムだって同様です。「女性全般を悪とみなして、女性の多様性を語るのをやめて」しまったら元も子もない。同じ穴のムジナです。

男性差別撤廃運動というのは女性差別撤廃運動と本質的には対立するものではない、並列するものだ。並立することで男女平等は実現できる。〜だから男性差別をなくす運動は男性が進めていかなければならない。フェミニズムが実現したように、マスキュリズムも同じことはできるのだ。

久米氏のこの記述に、賛同します。


フェミニスト兼マスキュリストでありたい、やがてはそんな区分もなく生活できたら。


3、フェミニズムと手を取るのか

日本では、フェミニズムから派生して男性の問題を考えるようになった男性による「男性学」の方が主流なのかもしれません。女性が登場してフェミニズムの波が出来るまでは、基準が男性だったから、あえて男性だけを取り上げるキッカケがなかったということです。だから“男性学”といっても、フェミニズムを男性視点から解釈し直すだけ、ということも多いのだとか。そのため女性学から離れて男性学でやるべきことといえば、「男性の中にもさまざまな男性がいる」という事実をより表面化していくことなのでしょう。

西井氏と環氏の対談はもう少し現代の話題に寄っていて、面白かったです。ネットを介しての方がカジュアルにLGBTも意識されるのかもしれません。といってもT(トランスジェンダー)は、男らしさを脱したい人が対象で、どちらかというと初期MtFやMtXを対象としています。男性学で幾度も引用されるコンネル氏もトランス女性ですし、「移行して後から既存の男性ゾーンに入り込むような」男性、つまりトランス男性の話題に乏しいです。

(西井) 社会心理学者の平山亮さんが言われてるんですけど、女性の場合は〈生の基盤〉が危ぶまれているという表現を彼はする。彼は本の中で男の生きづらさと女の生きづらさを並列させるんじゃない。女の生きづらさとは〈生の基盤〉つまり、職に就けない稼げない食えない、男に庇護してもらわないと生きていけない生きづらさだと主張する。

まあ女性として位置付けられることの弊害は多分にあって、仕事終わりに自宅への夜道を歩くことすら困難でしたし、レイプされるのか殺されるのかという男性からの恐怖を3度植え付けられた経験も、私事ですがあります。それは私が「女性として見做されていたから」だと解釈しています。

今なんとなくですが男性的な外見に近づいたことで、そうした生を脅かされる危険性は格段に減りました。ただただ生きていられるということだけでも、「男性」には特権があると感じられるほどに。仕事の格差や出産で負うリスクなんて話はそれからです。といっても私の経験について語るときは、私がFemale to Male のトランスジェンダーという過程を経て、「女性から男性へ」なると共に、「トランスジェンダーからシスジェンダーへ」近づいたことの、2点から複合的に語られるべきことではあります。もっと言えば、「子どもから大人へ」「都心から地方へ」の移行もありますし。なので原因を一要素だけに切り取って語ることは困難である、という事実も弁えておきたいことです。

私は次第にフェミニストだと自称・自認しなくなりました。通っていたレズビアンバーにももう行けません。それは私が男性に移行してきたからです。私は境遇上トランス男性に当たりますが、「あなたは男性ですか?」なんて証明を求められたら、そんなもの興味ないし知らない、でも今は概ね男性のように生活しているので男性ということにしておいた方が生活形態に則して都合がいいでしょう、と事実を告げるだけです。シスジェンダーの男性が「本当に自分は男性なのか」「なぜ男性なのか」「男性であるとはどういう状態か」と毎瞬間考えていないのと同じくらいには、別段私も考えたくはないのです。でも、一旦「もはや“男性”なんだろう」ということになってその状態が持続するならば、その身の置かれようも考慮して、今までのように女性スペースに入るわけにはいかないことを自ら了承しています。そんな風に生活しています。
フェミニズムの思想と実践に救われた分、男性と見なされる今は、その席を退いていた方がいいように思っています。

(トランス男性の境遇にあたる人が、「フェミニズム」と「男性も含むセクシュアルマイノリティ」の連帯を望んでいる事例もありますよね。今のところ特に反発はしませんし、そういうやり方もあるのだなあと思っているだけです。私とやや似ている境遇であるお二方、田中玲氏『トランスジェンダー・フェミニズム』と、吉野靫氏『誰かの理想を生きられはしない-とり残された者のためのトランスジェンダー史-』については、ゆっくり吸収していきたいところ。トランスを移行として捉える、境遇FtMの方々です。)


そしてそして、こんなふうに【シスジェンダーしか想定されていない】男性と女性の権利やシステムや生活空間について考えていると、では私はどこにいるのだろう、と不可思議な、やりきれない気持ちも湧いてきます。私は一介の男性社員として他認されていながらも、戸籍登録は女性のままです。正社員の給料としては男女で差があるわけではない職場ですが(とはいえパートや派遣社員としてやってくる新人さんは女性の方が多いような)、「若い男の子だから」と見られたうえで、コンピュータ関連の仕事や力仕事や、いずれマネージャーになるのを見込んで社外の人とのコンタクトが増えているのだとしたら、とてもジェンダーに縛られていることになりますし。こうして男性ジェンダーを浴びておきながら、公的なデータ上には「女性」の一人としてカウントされているのかもしれません。まあ戸籍上は女性で、国勢調査は男性で、病院はそれぞれ外見に基づいたり戸籍に基づいたりしているようです。なんのアテにもならない数値です。


4、トランス男性はどこにいる?

国内の論文ではまだ珍しいと思います、「トランス男性」についてほんの少しだけ言及されている内容を見つけました。

佛教大学の大束貢生准教授による2019年の論文
『日本における男性運動と男性対象のジェンダー政策の可能性 ― メンズリブを中心にして―』(2019年9月)

「2.日本における男性運動」の「2.3.今後の男性運動を考えるために」

最後に,「男性内の差異と不平等」について考えたい。(略)
男性内の差異のひとつとして異性愛かつシスジェンダーである性的多数男性と同性愛男性やトランス男性などの性的少数男性の差異があげられるが,メンズリブの中で 男性問題のひとつのテーマであったにもかかわらず,今日まで性的少数男性の運動が男性運動 として見られてきたことは少なかったように思われる。大山・大束は男性運動が異性愛主義を 克服するためには,異性愛者が異性愛性を相対化し,異性愛者であることを自覚的になること が必要である(大山・大束 1998:51)と述べたが,加えて性的少数男性たちが自らの男性性を基準とした男性運動を展開することも必要なことではなかろうか。つまり SOGI(Sexual Orientation and Gender Identity)に基づく男性運動の展開が必要とされるであろう。

よくぞ言ってくれました!

その反面、当たり前に今まで生きてきた私からしたら「最後に」「性的少数」なんて言われなくとも、ここにいます、ずっといましたよ、と述べておきたいのですがね。性的少数男性たちが主体的に男性運動を展開する場を常日頃用意してもらえると、それでようやくフェアな土俵に近づけるというものです(それくらいで対等になれるほどもちろん状況は甘くないでしょう)。異性愛前提で話さないとか、シスジェンダー前提で帰結させようとしない、とか日常的なことも含めて。

大束氏の記述では、下記の内容も興味深かったです。
多様化した男性対象のジェンダー政策が後退した理由として、男性運動が一連の政策決定に関してあまり関与しなかった背景が挙げられています。2010 年度からの第三次男女共同参画基本計画では施策の方向として「男性にとっての男女共同参画」が述べられていました。男女共同参画は、男性にとってもお得なんですよ、だから皆んなで協力しましょう、というスタンスだったわけです。
しかしながら 2015 年度からの第四次男女共同参画基本計画では男性への記述が削除されてしまいました。せっかく男性をまきこんでの政策が唱えられてきた時期に、何があったのでしょうか。それは安倍政権の方向性に起因します。


大束氏は以下の指摘を行います。安倍政権が、「女性の活躍を「社会政策」ではなく「成長戦略」として捉える方向性は,女性の問題を「男女の平等」という「人権政策」では捉えないということにつながっていると思われる。」つまり女性は”産む性”であり、経済政策に有効だから女性活躍が必要、とされました。一方で産む性としての経済政策に直接有効ではない男性への視点はおざなりにされました。これはもちろん女性側から、反発がありました。女性を労働力としか見ていない、結果として少子化を促進するぞと。一方で政策において男性は無視されることとなり、男性の問題へのスポットライトは消えてしまったのです。もちろんゲイやトランス男性を含む性的少数者である男性のことなんて、なおさら存在が認知されなくなったことは言うまでもありません。女性にまつわる課題(とすら言えないかもしれませんが)をどうにかしようとして盛大に筋違いな政策をやったおかげで、政権に携わる一部の間抜けな男性が、男性、ひいてはその他の多様な性の人々の首を絞めました。

さて、これは女性差別も男性差別もトランスジェンダーのような性的少数者への差別も、すべて繋がっていることがわかる実例ですね。一般化された「男性」へのアプローチが欠けると、トランス男性のことなんてますます後回しにされ、存在が無かったことにされます。

むろん、トランスジェンダーである人はシスジェンダーとの同化願望があったり、そうでなくとも現実的にシスパーソンと同等の生き方をしている人もいます。だからトランス男性にだって、「ヘゲモニックな男性性」がばっちり備わっていることもあるでしょう。この辺りの語りは、もう暫く英語圏で探す必要がありそうですが。


「男性学は滞っている」という男性、「女性のために、フェミニズムに突撃する」男性も見かけますが、だったら他にやることあっただろうに、と恨めしく思うことがあります。あれだけコンネル氏を引用しておきながら邦訳が少ないのも奇妙ですし、国内外のマイノリティ男性の言論をもう少し集めて統計化して男性学の多様性を膨らますことだってできたはずなのに。今私は黒人のトランス男性の文献が読みたいですが、それが日本の男性学の語りに現れるのは一体いつになるのでしょう。身近な話では、年配の世代に”仕事する男性像”を押し付け、その代わりに若い世代全般への正規雇用を減らした政権に怒りを表明することも、男性差別を減らしていくことの一手段でしょう。やれることはあったのに、なぜ内省しなかったのか。なぜ行動しなかったのか。
私は男性として2歳児程度ではありますが、「男性」についてしばらく考えていきたいと思うのです。

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