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「ある」の匿名の呟き
昨年(二〇二四年)の中頃、私は月に一度通っている精神科クリニックの先生に、過去にお世話になった先生方にも話すことがなかった、というよりは、話そうとする意識すらなかった「ある」の恐怖(フラッシュバック)の体験談を話し、そして、不明な点(以下に記した「ニ」の質問)を伺ってみたところ、先生は笑みを溢しながら、「脳が言ったんです。脳が「ある」に関する語(=「ある」)をポロッと言ったんです。」と答えられた。
私の口から出た言葉を「私は言っていない」という、不条理かつ滑稽な私の訴えを、純粋かつ真摯な問いとして、そして、脳という心の問題として受け入れた、まさに、訊くべき人に訊いた結果である回答に、私はそれ以外考えられないと確信を抱いた。しかしほぼ同時に、不思議に思う点が浮上してきた。それは、「ある」の恐怖という体験は初耳だと言われた先生が、なぜさも当然のごとく答えられたのか、である。医師としての直観なのだろうかと思いながら、私(フジムラ)は「失礼ですが」と伺ってみた。すると先生は、「フジムラさんのように脳を損傷した患者さんで、架空の名前を言い出したりするひとがいて、もしかすると、フジムラさんもそうなのではないかと思ってね」と、ただそれだけのことだというようなニュアンスで答えられた。
それ以上のことを訊くことはできなかったが、後日私は、「架空の名前を言い出した」うちのひとりが、ウィリアムズ医師を「ジョン・カーウィン」と呼んだフィネアス・P・ゲージ(1823-1860)であることを、アメリカの神経学者アントニオ・R・ダマシオの『デカルトの誤り』で知る。ゲージは脳の損傷によって人格が根本的に変化することで知られた最初の人物で、その事例は、神経学と精神医学のあいだで古くから語り継がれている。手短に述べると、建設工事現場の監督をしていたゲージ(当時ニ五歳)は、鉄道拡張で新たなルートを敷く工事をしていた際に、手順の誤りによる爆発事故に遭遇し、手にしていた長さ約一〇九センチ、直径約三・ニセンチの鉄棒が左頬から上に向かって突き刺さり、大脳の前頭部を貫通した。彼は奇跡的に一命をとりとめたものの、前頭部を損傷することによって、社会的責任感があり、計画したすべての作業をエネルギッシュにこなす健全なそれ以前の魂とは別の、動物的感情をもつ退廃的な魂に突き動かされるようになった。知人友人たちは口を揃えて、「ゲージはもはやゲージではない」と悲しげに言ったという。
そろそろお時間ですよ。先生の対応の微妙な変化からそのような気配を感じ取った私は、今回はいつになく長引いたかもしれないと思いながら、それに従うよう、「またよろしくお願いします」と軽く挨拶をし、診察室を後にした。
待合室に戻った私は椅子に座り、高ぶる気持ちを抑えながら、視線を床に落とし、先生の衝撃的な話の内容を整理しようとした。頭のなかでは「脳が言った」という、「ある」が脳の出来事であることを示すフレーズが、呪文を唱えるかのように自動的に繰り返されていた。
この日私は、先生からの問いかけ(「この一ヶ月間はどうでしたか?」「お仕事はどんな感じですか?」など)に答えたあと、これまでにしたことのない以下のような質問をした。
一、フラッシュバックを構成する要素となるのは、恐怖(トラウマ)を体験したときの物音や匂いといった記憶と感覚だと思うのだが、しかし私には、その要素となる脳を損傷する事故の瞬間(正確にはその少し手前から)の記憶と感覚がない。それなのに、なぜ、フラッシュバックは生じたのか。
ニ、何が「ある」かを知らずに「ある」と「私が言った」というようなことが、あるかどうか。
「二」の質問に対する先生の回答はすでに述べた通り、「ある」と言ったのは「私」ではなく、「脳」だ。そして、「一」の質問に対して先生は、誤りを訂正するかのように、「記憶はあります」と深く頷きながら答えられ、そして、「まったく覚えていないんです」と勘違いしている私に対し、こう言われた。「そのときの死の恐怖とか、精神が崩壊するのを防ぐために、脳が予防措置としてその記憶を脳のどこかに隠していたのですが、フラッシュバックが起きたということは、そういうことです」と。
隠された、つまり、抑圧された記憶は「語られること」がなく、それゆえ不変であり、意味それ自体がない。私たちが想起し語る記憶は、厳密に言えば、意味を与えることによって、その時々に改変され創作されるフィクションであるが、アクセスができない孤立した記憶、身体に負荷がかかる耐えがたい記憶は加工されることなくリアルな状態で、別言すれば、「主体の個人史の流れに結合」(1)されない異物のような状態で、脳の内部に保管されている(この記憶はラカン用語の「外密」に当たるのだろうか)。ベッセル・ヴァン・デア・コークは、そうしたトラウマの記憶が理性脳(前頭前皮質)の奥にある情動脳(大脳辺縁系──哺乳類脳とも呼ばれている動物脳)の皮質部分を形成する扁桃体に点火すると、「感情を言葉に表すのに必要な(左脳前頭葉に位置するブローカ野と呼ばれる言語中枢の)領域や、時間の感覚にかかわる領域、入ってくる感覚の生データを統合する視床を含め、前頭葉が機能停止に陥る。そして、意識的な制御が効かず、言葉での意思疎通が不可能な情動脳が、この時点で主導権を握る」(2)ということを、スキャン画像で明らかにした。
感情を生成する前頭葉(大脳新皮質)の機能が停止している際に、恐怖情動を生成する扁桃体が亢進することによってフラッシュバックは引き起こされる。過去に遭遇したトラウマが現在に侵入し、身体(内臓)に破壊的な反応をもたらすのだ。
扁桃体と親密な関係を結んでいるこの情動は、高次認知機能(前頭前野)で処理される願望や後悔といった、他者に依存する複雑な大人の情動(二次の情動)の礎となる、前頭前野の機能が未発達の幼児が経験するような、情動反応のプロセスの結果である感情(=知覚)に至らない喜びや恐れといった生得的な情動(一次の情動)を指し、「ある身体反応を引き起こすためにクマ、ヘビ、ワシそれ自体を「認識する」必要はない、つまり、正確には何が苦痛を引き起こしているかを知る必要はない」。(3)ラカンが精神病の理論化をめぐって明確化した領域と言われている「現実界」──「[…]意味作用を欠いた現実が断片化し、世界の外から突如人の上に出現して主体に決して答えられぬ不可能な問を発する。主体はその根源的な問を前に、恐怖に怯え、宙づり状態の中で自らの構造を崩壊させ分裂させていく運命にみまわれる」(4)──に相当するレヴィナスの「情動」──「情動は、実在そのものではなく主体の主体性を問題にする。それは、主体が凝集すること、反応すること、何ものかであることを妨げるのだ。主体における積極性=定立的なものは、いずこともなく崩れ落ちる。情動とは、土台を失いながら身を保持する様態である。情動とは、[…]空虚の上にいるという事実である。形の世界は底無しの淵のように口を開ける。コスモスは破裂し、カオスが、すなわち深淵が、場所の不在が、〈ある〉が、あんぐりと口をあけるのだ」(5)──は、意味不在の一次の情動であり、脳自身が触発する「私」=他者と時間が消滅した語りえない記憶をいま起きているかのように、身体という舞台でダイレクトに表現する。
レヴィナスは「遍き不在」=「ある」に対して、「思考によって捉えられるものではない。それはじかに無媒介にそこにある」(6)と述べている。
思考し判断する脳の領域の機能が停止しているがために、何が「ある」かを、また、何が恐怖を引き起こしているかを知ることもできないし、思考することもできない。「ある」に意味はない、にもかかわらず「ある」。「ある」の匿名は、存在でも神でもなく、実質、前頭葉(前野前野)の機能停止=「私の死」に依存している。
参考文献
(1)カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』河出書房新社、二〇一六年、二六頁。
(2)ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』紀伊國屋書店、二〇一六年、二九一頁。
(3)アントニオ・R・ダマシオ『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』ちくま学芸文庫、二〇一〇年、二一〇頁。
(4)今村仁司=編『現代思想を読む事典』講談社現代新書、一九八八年、三二一頁。
(5)エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』ちくま学芸文庫、二〇〇五年、一五二頁。
(6)同上 一二三頁。
訂正
私は前回の記事で、「ある」の恐怖は「トラウマ(フラッシュバック)、あるいは心的外傷後ストレス障害(PTSD)と思う」と不明瞭に書いたが、米国精神医学会診断統計マニュアル第五版(DSM-5)によると、侵入や回避などの症状が一ヶ月以上続く場合がPTSDであり、一ヶ月以内に起こった一度きりの「ある」の恐怖は、急性ストレス障害(ASD)になる。であるならば、「ASD」に訂正するのが妥当なところ、当事者として改めて考えると、重要なのは、「ある」の恐怖はそのどちらかというのではなく、フラッシュバックによる「情動」だと思ったので、「フラッシュバック」とした。
そしてもう一点、以前書いた『〈ある〉の体験について』という記事で、私は、レヴィナスが「アウシュビッツの強制収容所で死の灰を見、「ある」と言ったと言われている」などと書いたが、そう書いてあったと記憶していた『時間と他者』(法政大学出版局)、その他所持しているレヴィナスの本の「訳者あとがき」を拝見したところ、そのような文言は確認できなかった。訂正する。