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ライン(ティム・インゴルド)・・・「『わたし』という現象をめぐる考察ノート」用語集⑧

(1)生きることにかかわる様々なライン

 イギリスの人類学者ティム・インゴルドが使用するメタファーです。インゴルドの仕事は、人類学を中心としながらも、哲学、社会学、芸術など幅広い範囲に広がっています。その中で、人間の活動のあらゆるものを「ライン」つまり線として捉えています。
 ラインにもいろいろあるのです。糸、軌跡、刻印、連結器、破線。人の動きに関わるものは、主にこのあたりでしょうか。他にも割れ目や亀裂についても、インゴルドはラインの例として扱っています。

 本文で、私が主に扱ったのは「歩くこと」でした。同じことを書いても面白くないので、(ちょっとだけわかりにくくなってしまうのですが)ここでは音楽を例にしてお話ししてみます。

 実際に演奏される音楽を、インゴルドは糸と呼びます。これは、生命の運動と成長のメタファーです。時に曲がりくねりながら、空間をスーッと流れ、広がっていきます。ある曲を、同じ人が同じ楽器を使って演奏していたとしても、音色やタッチ、テンポなど、毎回少しだけ違うこともあるかもしれません。でも、それが生きているということですよね。糸とは、人の生きている姿、あるいはその人の実際に現在進行形で行う行動を示しています。

 過去に演奏されたもののことを、軌跡と呼びます。一面では、それはその人の過去の経験です。それは経験として記憶されている限りにおいて、もう一度演奏しなおすこと、「糸に変形する」ことができます。あるいは師匠から弟子へ、口伝によって伝えることもできます。このように「容易に糸に変形されるもの」という観点で見るのであれば、これを身体図式のようなものとしてとらえることもできるのではないでしょうか。

 音楽を、印刷された現代的な五線譜で表すことが刻印です。楽譜は、単に眺めることだけでは、実際の音楽のすがたをイメージできる人は限られるものです。もちろん、ある程度の音楽教育を受けている人は「どんな音楽なのか」をイメージすることができるでしょう。でも、楽譜をそのままPC等に打ち込んで演奏させても面白くなりませんよね。商業化されている(一般の聴衆が楽しむことができる)電子音楽は、実際の演奏を取り込んだり、音のアタックや消え際を加工していくことで、それっぽく仕上げています。つまり、そういう加工をしていない「刻印」からは「それっぽさ」が備わっていないわけです。

 楽譜に書き込まれている音符は連結点になるでしょうか。それは省略された身振りであり、典型的には印刷(刻印)されたものです。楽譜そのものがそうであるように、ひとつひとつの音符からは音色など、演奏の息遣いが全く消え失せています。楽譜は、そのような連結点がつなげられたもの。演奏される音楽の姿からは程遠いですね。

 そのような音符と音符、連結点と連結点が結びつけられたものは、破線あるいはプロットラインです。一見それはラインそのものであるようにも思えますが、そこには生きられた身体の姿が失われています。ただ、その要素となる点のみが残され、そこから次の点へ至る直線的な、しかし仮想のラインが描かれます。
 実際の演奏は、ビブラートやリズムのずれなど、決して直線的なものにはならないのです。インゴルドにとって、近代以降の時代とは、生きられた糸と軌跡の世界が、省略され、断片化された破線、あるいは仮想的な直線の世界に成り代わることでした。

 そして、そのような直線は、通常は現代的な五線譜のような平面に引かれます。この場合の平面とは、構造であり、権力的なものです。刻印や連結点が、ただの模様ではなく「意味を持つ」のは、「それが表面に描かれたとき」です。その表面が平面である場合は、構造的な、あるいは通時的な意味の秩序に従うことです。平面に書かれているからこそ、わたしたちの多くが理解できるものになります。音符はそれ単体では意味を持たず、五線譜という平面に並べられ、一定の順序で並べられることによってはじめて、理解可能なものになっているのです。生の息遣いを剥奪されたままで。

 あらためて生演奏に戻りましょう。インゴルドが良く引用するのは、弦楽四重奏です。ひとりひとりの演奏を一本の糸と考えてみてください。それぞれの演奏者は、互いの演奏に耳を傾け、客席の反応を感受しながら、糸を紡いでいます。その糸は、互いに絡み合い、結びあうのです。一枚の布を織りなすように。
 それは平面とは限らない表面を形成します。それは、楽譜のような象徴的な意味と決してイコールではありません。あらかじめ用意された平面に描かれるのではなく、生きられた糸の運動そのものが網の目になるのです。これを「メッシュワーク」と言います。

(2)ラインとモダニティ

 最初に書いたとおり、これはメタファーです。糸とは、実際の人間が生きている姿です。それは軌跡として残ります。そして人間は、軌跡をたどることができます。それは本人の過去の経験であり、先達の言葉です。糸は軌跡に、軌跡は糸に変形するのです。それは糸と軌跡のあいだに、何かしらの相互作用が起きていることを示します。

 刻印はそれが構造化され、権力によって強化されたものだと読み取ることができるでしょう。インゴルドは、身体の生きられた姿が失われた決定的なものは刻印であったとしています。身体は刻印を辿ることもできます。しかしそこには相互作用はないのかもしれません。
ブルデューのいうハビトゥスのように、それは構造を再生産する強い傾向を持つ強固な心的傾向なのでしょう。

 連結点、そして破線は、言ってみればマニュアルでしょうか。あるいは近代社会で人に与えられている役割、もっといえば権力に規定された人の姿かもしれません。直線であることは、(光がまっすぐ進むように)「正しい」ものを示すものとイメージされます。曲がりくねったものは(日本語でも「心が曲がっている」という慣用表現があるように)「正しくないもの」というイメージがつきまといます。
 しかし、インゴルドが繰り返し述べるように、生きられた身体が形成するラインは、その成長と運動に応じて「曲がりくねっている」のです。破線は、それを「正しくないもの」として否定してしまうかもしれません。

 そして前述したとおり、連結点や破線は、平面に刻印されて残ります。そして平面は引力と斥力を発します。身体の運動が「正しく」あるように。「正しくない」身体を排除するように。

 それが軌跡であれ、刻印であれ、人間が行動することとは、概ねのところ、それらを辿ることです。ただし刻印をたどって生まれてくる糸は、細い刻印の中を潜り抜けなければ生成されないものであるため、恐らく固く鋭い形状をしています。そして引力によって平面に引き付けられています。
 本文で記載したとおり、そのような糸は、他の糸と交錯したとき、絡み合ったり結びあったりすることができず、他の糸を切断してしまったり、自分自身が折れて断片化しやすいものなのだと思います。

 本来の糸——柔らかくしなやかな生命の糸は、他の糸と自由に絡み合い、結びつきます。決して他の線を切断したり、たやすく折れてしまうことはありません。結びあい、互いに引き合う中で、平面にとらわれることなく、様々な織地をなすことができます。それが表面として、必ずしも構造に規定されない意味を生成していくことになります。

 キャリアコンサルティング——とりわけナラティヴに「わたし」を聴き取っていくアプローチは、平面を辿っているそのような硬く鋭い糸を、その軌跡を辿りつつ、空間を自由に運動し、成長する糸の状態に戻し、新たな表面を形成することなのだと思っています。

 ついでの話ですが、本文の中で「プロットライン」に示されたものではない「直線」の例として、「ピンと張った糸」という比喩をしています。これは、いわゆるフロー状態。スポーツの世界では「ゾーン」って呼ばれていますね。自発的な目標をもって、最大限の集中力でそこへ向かう「糸」。そんな姿をイメージしています。

 普段はゆるっとしていたいものですが、いざというときは、そんな風に空間をまっすぐ進む、ピンと張った糸にもなり得るような、そんな自分でありたいな、と私は思っています。

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