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サッカーとジャズ。ミニマルでナラティブなハビトゥスの「移調」・・・「わたし」という現象をめぐる考察ノート④

0.はじめに

 前項では、ブルデューのハビトゥス概念について、その身体図式としての性質を検討してきた。その中でハビトゥスの「移調」すなわち身体の可塑性について、リチャード・セネットのクラフトマンシップ概念を紐解きながら、その一つの可能性を明らかにした。
 今回もその続きといえる。スポーツなどの実践を実例に挙げながら、いわば戦略として、身体的な時間と間身体性の中で、実践の中でハビトゥスが移調していく様子を見ていく。

1.序論

 メルロ=ポンティは、サッカーを実例に挙げ、次のように言う。

グラウンドは「様々な力線によって辿られ、またある種の行為を促す諸区画に分節されて、競技者の知らぬ間に、彼の行為を発動させ、支えている」「実践的志向の内的目標空間」であり、「意識がこの環境に住み着くというだけでは足りず、意識とは、この瞬間、環境と行為の弁証法以外の何ものでもない」。「競技者の試みる駆け引きが、その都度グラウンドの様相を変え、そこに新しい力線を引き、そして今度は行為がそこに繰り広げられ実現されながら、再び現象野を変容させる」。

(sc,182)

 これは、身体性と環境の相互作用、および知覚と行為の不可分な関係について説明したものであろう。一つには、ゲーム中のグラウンドは、プレイヤーひとりひとりの実践そのものによって、動的に構造化され続ける空間である。それは常に、意味的な変容を遂げつつ、変容することによって、次の実践を方向付ける。
 ここでは、実践は知覚と不可分の運動となる。空間は常に動的に変容する。その「力線」は知覚された瞬間、たちどころに過去のものとなる。プレイヤーは知覚した瞬間、次の変容を予測しつつ運動する。意識は、それがミニマルかナラティヴかと問われる以前に、知覚と同期した運動に一致するのだ。それは世界の中に投げ込まれた身体、「生きられた身体」そのものである。

 そして(恐らくはこの例示に引きずられて)ブルデューは「ゲーム」について時間論を展開する。ゲームにおける実践では、その特性として現在という時間に特権性があり、そこでは過去を参照しつつ未来を予測…未来への投企…することで「来るべき未来に現前する」(「実践感覚」P131-132)とした。それは「実践が時間の中で演じられているからばかりでなく、実践が時間を、そして殊にテンポを戦略的に使うから」(idid.130)なのだろう。
 現在は単なる瞬間ではなく、過去の経験によって規定されたハビトゥスによって構造化され、同時に未来への実践的な指向性を含む豊かな「現在」として経験される。ここでは、歴史的に形成されたハビトゥス…具体的にはそれまでに積み重ねられた練習や、試合の経験…という社会性、あるいは構造化された構造としての性質が強調されるものの、メルロ=ポンティと同様に、現在という時間に依拠した「生きられた身体」という側面が意識されているといっても良いだろう。

 ブルデューの時間観は、基本的にメルロ=ポンティのそれを継承したものである。両者は、時間の中で現在に特権性を見出し、たとえばメルロ=ポンティは「現在は単なる時点ではなく、実存の全体的な場面である。それは私の存在の様態そのものである」(PP, 485)とする。そしてハビトゥスがまさにそうであるように、メルロ=ポンティにおいても過去は「把持」され、未来は「予持」として「現在に属している」。
 また、「意味は時間的な構造を持つ。それは過去からの沈殿と未来への投射の交差点において生まれる」(PP, 488)。ただし、ブルデューにおいて、この「意味」は構造化された構造としての性質を強調され、個人の主観的経験というよりも、特定の場(フィールド)における実践の論理として理解される。

 このようなハビトゥスが、特定の技能領域に発現したものを、セネットはクラフトマンシップとして記述した。それは時間的な構造をもった意味が、その熟練ないし卓越性により、実践の論理として拡張し、実践の「場」を拡張し、ハビトゥスの移調を果たす可能性について見てきた。
 ここでは、そのような技能の熟練がその技能に直接結びついた「場」において、どのように機能するかを見ていくことになる。

2.サッカーまたはゲーム

 スポーツ実践において、技能は過去に蓄積された経験の総体として存在する。トレーニングや試合での経験は、身体に沈殿し、現在の実践において新たな意味を帯びて立ち現れる。この立ち現れは、意識的な想起を必要とせず、状況との直接的な対話のうちに実現される。その意味で、これはミニマルセルフに属する領域だと言える。
 ここにおいて、プレイヤーの身体は、現在目の前に広がるグラウンドの状態を知覚すると同時に、過去の経験を現在の状況へと即座に投射する。この投射は、反省的思考に先立つ身体的理解の次元で生起すると同時に、未来の予期を含んだ自己の実践の物語として把握される。その意味で、これは言語以前の「物語」と言えるかもしれない。それは、瞬間的な技能の発現のうちにも、これまでの経験の総体が凝縮された形で現れることを意味する。

 実践における技能の発現は、意識的な制御を超えた即時的な、すなわち現在という時間・空間への知覚として現れる。それは、状況との直接的な対話を可能にする身体的知性であると同時に、自己の実践の歴史が結晶化された<世界>でもある。プレイヤーは、反省的な思考を介さずに状況の要請を把握し、それに応答する。
 この即時的な理解のうちには、個々の練習や試合の経験が沈殿している。それは単なる技術的な記憶ではなく、クラフトマンシップがそうであったように、状況との対話を通じて形成された実践感覚である。この感覚は、過去の経験が身体的理解として結晶化されたものであるとともに、同時に実践者としての自己理解をも含んでいる。

 このような実践の物語性は、必ずしも反省的な思考を必要としない。プレイヤーは、実践の瞬間において自らの技能の歴史を暗黙的に理解している。この理解は、個々の動作や判断のうちに自然な形で織り込まれ、実践の質を規定する。
 トレーニングや試合での経験は、意識的な物語化を経ずとも、ハビトゥスとして現在の実践に意味を付与する。それは、身体的な即応性のうちに実践者としての自己理解が埋め込まれていることを示している。この即時的な物語性は、技能の発現に方向性と意味を与える。

 そして、メルロ=ポンティとブルデューがともに述べていた通り、実践における時間性は重層的な構造を持つ。即時的な身体的理解と実践の物語性は、参照される歴史と未来への投企、さらにそれらが刻み込まれた現在として、分かちがたく結びついている。プレイヤーは、状況への即応的な対応のうちに、自らの実践の歴史全体を暗黙的に含みこんでいる。
 この重層的な時間性は、ハビトゥスの創造的移調を可能にする。過去の経験は、身体的な即応性として結晶化されながら、実践の物語として暗黙的に理解され、新たな文脈…未来…へと移調される。

 ゲームにおいて知覚されるものは、今ボールがどこにあるかということや、他のプレイヤーの現在のポジショニングではない。時間の重層性において、それは次の瞬間にそれらがどう動いているのかについて、確度の高い予持がもたらされるのだ。熟練した技能は、連続する予持のあいだに自らの優位性を描き出す。木工職人は木材との対話において、過去から把持された過去の実践を超えた実践を生み出す。同様に卓越したプレイヤーは、ゲームの<世界>との重層的な時間を含んだ対話の中で、本人の予想さえ超えるスーパープレイをしばしば生み出すのではないか?
 さらにこれは「ハビトゥスの創造的移調」というよりも、むしろハビトゥスの拡張であり、それ以上に「ハビトゥス<による>創造的移調」というべき事態ではないか?

 これにより、実践知はこの重層的な時間性のうちに独特な深度を獲得する。そこに即時的な身体的理解の確かさと、実践の物語としての豊かさが一体となって現れる。この深度は、過去の経験が現在の実践において新たな意味を獲得する可能性を示唆している。
 この時間的深度は、技能の発現に質的な豊かさをもたらす。プレイヤーは、即時的な状況理解のうちに、より広い実践の文脈を暗黙的に知覚する。この知覚が、身体図式の一体性において、技能の創造的な発現を可能とするのだ。

 このようにスポーツ実践における技能の発現を、重層的な時間性の観点から理解することは、その本質的な特徴を明らかにする。過去の経験は、身体的な即応性と実践の物語性が統合された形で生きられた時間へと投企され、新たな意味を獲得する。
 この重層的な時間性の理解は、技能形成と発現の過程に新たな視座を提供する。それは、即時的な実践の確かさと実践の物語としての豊かさが不可分に結びついた形で、技能の創造的な発展可能性を示唆しているように思われる。

3.即興演奏の実践

 今度はサッカーではなく音楽の場面を検討してみる。具体的にはジャズの即興演奏について、その相互作用的性質から捉え直してみよう。ここでは演奏者間の対話的関係性がそれ自体として持つ物語的構造とともに、21世紀のジャズ…すなわちロバート・グラスパー以降…における伝統と創造の両義的関係に焦点を当てる。

 モダンジャズ以降の伝統的な演奏では、通常テーマと呼ばれる原曲のメロディが演奏されたのち、各奏者がそれぞれに即興演奏を行い、また原曲のメロディに戻って終わるという形式が典型的なフォーマットとなっている。即興演奏においては、コードやスケールなどの原曲の構造が参照され、それらに従った演奏が行われていく。
 しかしながら「構造が参照される」といったとしても、ブルデューが戦略を身体と時間の関係に捉えたように、たとえばリズムをずらすこと(端的にはスイングすること)は、ジャズという音楽としての根幹のひとつとして、その場で再構築されていく。あるいはコードやスケールに対しても、身体化された知性としてのクラフトマンシップにより自由に読み替えられていく。これにより、実践としての即興演奏は無限の可能性を持ち、常に変容していく。

 そのとき興味深いのは、即興演奏の主役がどのように演奏したとしても、演奏者たちは常に適切な伴奏を行うことができるということだ。また、同時に伴奏者のリアクション自体もステージの下からは予測不可能な多様性を含むにもかかわらず、グループ内で互いに知覚され、互いに影響を与えあっていく。そのとき、リズムはどのようにずらされるか、コードがどのように読みかられるかは、たとえ把持されたパターンとしての予持はあったとしても、それは各演奏者の実践感覚にゆだねられているにもかかわらず(※1)。
 このように即興演奏という相互作用においては、「場」を共有する演奏者のすべてにおける前反省的な対話において、ほとんどの場合で音楽的な調和が実現される。これは演奏という共同的な実践、あるいは「場」への参入において、前反省的かつ間身体的な物語性がもたらされていることを示すのではないかと考える。

たとえばスタンダードトリオとして知られるキーズ・ジャレットのピアノトリオにおいては、ライブ演奏において、メンバーはどの曲を演奏するのかさえ知らされていないという。ベースのゲイリー・ピーコックとトラムのジャック・デジョネットは、キースが引き始めた音を聞くことにより、どの曲がどのように解釈されて演奏するのかを推測し、対話的な反応の中に音楽の構築に参与していく。

※1

 即興演奏における物語性は、個々の演奏者の内的な経験の次元を超えて、演奏者間の相互作用そのものの中に立ち現れる。この相互作用的物語性は、演奏の進行とともに即時的に紡ぎ出される集合的な意味生成として理解される。各演奏者の音楽的応答は、それ自体が物語的な展開を持つ対話的構造を形成する。
 この物語的構造は、演奏の完成度として具現化される。個々のフレーズの交換は、より大きな音楽的文脈の中で意味を獲得し、演奏全体としての 一貫性を形成する。これは必ずしも事前の計画により実現されるものではなく、相互作用の過程で創発的に生成される質的な統一性であろう。

 演奏者間の調和は、この相互作用的物語性の中で対話的な弁証法による構築物として現れる。この調和は、単なる音楽的な協調以上のものであり、各演奏者の創造的表現が織りなす動的なダイナミズムとして理解される。それは、個々の演奏者の技能が相互に感応し、増幅し合う過程で生成される。

 この調和の生成は、意識的な制御を超えた即時的な理解に基づいている。演奏者たちは、互いの音楽的意図を直接的に把握し、それに応答する。この応答は、その対話的性質により既に物語的な性質を帯びており、演奏全体の展開に方向性を与える。

 さらに、ロバート・グラスパー以降として語られる現代のジャズは、この前反省的で相互作用的な物語性に新たな次元を付け加える。それは、伝統との関係における両義性として現れる。演奏者たちは、ジャズの伝統的文法を深く理解しながら、同時にその構造的な解体を試みる。この両義性は、単なる否定ではなく、伝統との創造的な対話の可能性を開く。

 ここでは、クラフトマンシップ的に卓越した技能が駆使される。例えば、ドラムは(それまで人間の身体では物理的に鳴らすことができないと考えられてきた)電子的にプログラミングされたビートを、それぞれ二本の腕と足のみで叩きだす。ベースもジャズの伝統に依拠しつつも、多様に発展していった様々なビートやハーモニーの基調としての基低音を、場合によっては(例えば1/32拍子遅らせて演奏するように)自然な身体感覚に反した演奏を実現する。
 他の演奏者についても同様だ。彼らは伝統的なジャズの枠組みを身体化したうえで解体し、ありとあらゆるイディオムの奏法を駆使する。

 この対話は、しばしば伝統的な調和の概念自体の再解釈を伴う。場合によっては不協和や断絶さえ、新たな表現可能性として積極的に探究される(※2)。これは、相互作用的な物語性がより複雑な層位を獲得することを意味する。

不協和や断絶の取り入れについては、グラスパーよりもオーネット・コールマンらのフリージャズにおいて、より顕著であろうか。

※2

 しかし彼らは、自分たちの音楽がポピュラーミュージックであることをあきらめようとしない。伝統的なジャズは、しばしば難解な音楽として受け取られる。それに対してグラスパーたちは、卓越した技能により実現された拡張性…伝統に対する両義性…において、ポピュラーミュージックの文脈における新奇性を獲得したように(少なくとも筆者の主観においては)感じられる。

 伝統的構造の破壊は、新たな音楽的言語の探究として理解される。この探究は、既存の表現様式の限界に挑戦し、未知の音楽的領域を開拓する。しかしこの破壊的契機も、演奏者間の相互作用的物語性の中で意味が生成されることによってのみ発言する。
 破壊は単なる否定ではなく、まさしく新たな調和の可能性を探る創造的な実践となっているのだろう。演奏者たちは、伝統的な構造の解体を通じて、より豊かな表現の地平を開く。この過程は、ジャズという前反省でな相互作用的な物語性の新たな展開なのだろう。

 現代のジャズにおける調和と破壊の関係は、このような弁証法的な運動として理解可能だ。伝統的な調和の解体は、より高次の統一性を目指す創造的な運動として現れる。この運動は、相互作用的物語性の中で独特な展開を見せる。

 演奏者たちは、伝統との対話と破壊の両義性を、即興の瞬間において統合する。この統合は、新たな音楽的表現の可能性を開いたのだ。それは、伝統、もっと具体的に言えば既存のハビトゥスの単なる否定でも継承でもない、創造的な超克として理解されるだろう。

 このようにジャズ即興演奏における相互作用的な物語性は、21世紀的な文脈において新たな展開を見せている。それは、伝統を継承することの両義性であり、したがって、より複雑な創造的実践としての発展なのだ。調和と破壊の弁証法的運動は、この実践の本質的な特徴として、現代のジャズにおける創造性の本質を照射する。即興は、相互作用的な物語性を基盤としながら、伝統との創造的な対話を通じて新たな表現可能性を探究する実践として把握される。この探究は、ジャズという音楽を未来に向けた開かれた運動とし続けているのである。

4.間身体的体験としてのコーラ

 ここまでみてきたように、ゲームや即興演奏における実践は、その独特な時間構造を如実に示す。この構造において特徴的なのは、「現在」の圧倒的な優位性である。プレイヤーは、過去の経験を基盤としながらも、その体験の核心において現在に「生きている」。この現在性は、単なる時間軸上の一点ではなく、生きられた時間の濃密な現前なのだ。

 現在の時間的優位性は、実践における即時的な判断や行為の必要性から生じる。プレイヤーは、状況の展開に即座に応答しなければならない。この応答は、熟考の時間を許さない。それは、身体的な即応性として以外では実現されない。この即応性は、現在という時間様態の中で最も鮮明に現れる。

 ここでいったん、ジュリア・クリステヴァのコーラ概念を参照することとしたい。クリステヴァは(プラトンを再解釈しつつ)コーラを意味生成の母体として提示した。

「コーラとは、まだ明確な輪郭を持たない流動性であり、律動的な空間である。それは、意味作用の過程に先立つものであり、まだ記号化されていない衝動の運動である」。

J.クリステヴァ「詩的言語の革命」

 それは言語化される以前の身体的な律動や運動性である。したがって身体的な衝動、リズム、声調、身振りの領域の体験である。

「コーラは、母体内の胎児の経験に近いものである。それは、リズム、音、光、色、触覚など、まだ意味として組織化されていない身体的な感覚の総体である」。

その意味でコーラは、主体形成の前-言語的な、すなわちミニマルセルフの次元における基盤にほかならない。

 これらの要素は、コーラが一つの身体における体験あるいは様態としてのものではなく、間身体的な体験として経験されるものであることを示すもののように思われる。
 クリステヴァにおいては、コーラは、自己と他者、内部と外部の明確な区別が存在しない段階であり、そこでの身体は周囲の環境と融合した状態にあるとされる。

 しかしそれは、自他の区別のない状態であるというよりも、そもそもそれらの「あいだ」にある状態なのではないか?コーラとは身体的な衝動、リズム、声調、身振りとして、ミニマルとナラティヴを超えた身体間の共鳴やリズムの交差する体験なのではないか?そしてゲームやジャズのプレイヤーたちの実践に見られるような、身体間での意味の生成・共有のプロセスだったのではないか?
 ゲームや即興演奏における体験は、各身体がこのコーラ的次元において交差していることを暗示する。プレイヤーの身体は、意味の生成に先立つ運動性…身体的な衝動、リズム、声調、身振り…において、他者との共鳴的な関係にある。この関係は、意識的な制御を超えた次元で展開される。

 コーラ的体験の本質的な特徴は、その間身体的な性質にある。この間身体性は、個別の身体の単なる集合ではない。それは、身体間の共鳴的な関係性の様態なのだ。ゲームや即興演奏において、プレイヤーたちは互いの身体的な在り方に直接的に感応する。この観応は、予持された未来として戦略に取り入れられ、即興的な熟練技能の発現を可能にする。
 この感応は、意識的な観察や解釈を介さない。それは、身体的な律動や緊張あるいは力線のベクトルの即時的な共有として現れる。この共有は、コミュニケーションの前言語的な層位において生じる。それは、意味の生成に先立つ身体的な共振としての理解なのだ。

 相互作用の中に共有されたコーラは、共有されることによって、身体の実践知のなかに「生きられた時間」としての性質を見せる。この実践知は、ハビトゥスあるいはクラフトマンシップとして、過去の経験の蓄積を基盤としながらも、その発現において徹底的に現在に拘束される。プレイヤーは、未来を予持しつつ、習得した技能を現在の状況へと創造的に投企する。
 この投企は意識的な選択の過程ではない。それは身体的な即応性なのだ。この即応性は、コーラ的な次元における間身体的な共振を通じて可能となる。実践知は、この共振を通じて現在の状況に適切に応答する。

 コーラの間身体性は、創造的な契機を含む。この創造性は、既存の技能や知識の単なる適用ではない。それは、現在の状況における新たな可能性の発見として現れる。この発見もまた、間身体的な共振を通じて実現される。
 プレイヤーは他者との共鳴的な関係の中で、予期せぬ展開を生み出す。この展開は、個々の主体の意図に関わらず、しばしば創発的な性質を発揮する。もちろん意図的な関りにおいて発揮される創発性もあろう。しかし創発性は、これまで見てきたクラフトマンシップやプレイヤーたちに見られるように、世界との対話的な関係を結ぶことによって、ときに発現する。この本質は前言語的な、すなわちミニマルな間身体性なのだ。

 さらにコーラ的体験における間身体性は、主体性の再考をも促すだろう。ここでの主体は、自律的な決定の主体としてではなく、他者との共鳴的な関係の中で生成される動的な主体として理解される。この主体は、現在の優位性の中で、常に他者との関係性において自己を更新する。
 第1回で述べたように、ナラティヴセルフとは言語的な物語によってのみ形成されるものではなく、語り得るものとして身体内で把持されることも含むものとして理解される。<世界ー内ー存在>である身体のミニマルな体験は、その本質としてコーラの間身体性のなかにある。それは、対話的な関係に限らず、あらゆる相互作用における実践のなかに現れるのだ。そして、コーラは意味生成の母胎として、ミニマルであり同時にナラティヴでもある「わたし」という現象の基盤を構成する。

5.おわりに

 ここまでゲームやジャズのプレイヤーたちを例示しつつ、ハビトゥスの移調が一見ミニマルに、しかし間身体的な物語としてのナラティヴな様相を見せつつ行われる様を見てきた。
そしてこの間身体性の基盤を、クリステヴァのコーラ概念に見つけた。

 このようなゲームや即興演奏におけるハビトゥスの移調は、その時間構造と、それとともに生起する意味ないし物語としての性質によるものだった。現在の優位性とコーラ的な間身体性の交差。この交差は、実践知の発現、創造性の生成、主体性の更新において重要な役割を果たす。これは、ミニマルセルフとナラティヴセルフのまじりあった領域、すなわち意味が生成する領域である。
 これは恐らく身体にとって、あるいは「わたし」という現象にとって、重層的な意味を持つ現象であるように思われる。ここでの間身体的コーラについては、別に項をあらためて詳細な検討を加えることにしたい。

 ともあれ私たちは、引き続き「わたし」という現象をめぐってハビトゥスに関する検討を続ける。次項では、すでに意味化された空間、すなわちナラティヴなプロセスにおいて移調されるハビトゥスについて見ていきたい。
 


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