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暮らし(住まい)というもの

 年末年始の正月飾りにフラワーアレンジメントをしていたのだが、そこに挿していたユキヤナギが根っこも無いのに新芽を開かせている。1か月ほど経つのにまだまだ元気に健在だ。ひょっとして、土に挿したら成長して根を張るのではなかろうか。 

 それでは本題。自己紹介で書かせて頂いたように、自分を構成する要素に暮らし(住まい)というものがある。元々、個人住宅の設計に携わっていたこともあり、住宅建築家である中村好文を知るのは必然だったと思う。

 中村好文の著書『住宅読本』を読み返してみた。2004年に発行されているので、20年近く経っている。知り合いの話で今の若い子たち(20代、30代)が中村好文を知らないと言うから、世代間ギャップを感じたという。それはそうかも知れない。しかし、その世代間ギャップを埋めるかのように『住宅読本』は、今の住まい(暮らし)に通ずるものがあり色あせていない。人の暮らしって今も昔も根本的なところは変わらないのかも知れない。

『住宅読本』著者:中村好文(気になる部分に付箋を貼ってある)

 その中で、住まいについて真髄というか核心を突くというのだろうか、優しい物言いの中に散りばめられた住宅に対する強い想いが伝えられているような気がした。

 その土地で取れた材料を用い、その土地の技術で作り上げられた建物は、それがたとえ貧しい建物でも美しい ”考現学者 今和次郎”

出典:『住宅読本』 著者:中村好文 第1章 風景

 これは根源的というか、日本の山村などではよく見られた古き良き光景では無いだろうかと思う。山から木を切り出し、そこにある土や石、藁を使って、村民の力で建物を築き、そこに住まう。質素で慎ましい住まいなのかもしれないが、そこには暮らしがあり、生活の営みが日々淡々と続いている。モノとしての豊かさは無いかもしれないが、心の豊かさは与えてくれるかも知れないなと思う。

 「心地」というのはなかなかいい言葉ですね。「住み心地」にしても「座り心地」にしても、ちょっとほかの言葉に置き換えられないニュアンスがあります。そう、そう、「夢見心地」なんて言葉もありました。これなんかも、ほかの言葉にするのはとても難しそうです。ところで、「心地」のつく言葉で私が一番好きなのは、やはり「居心地」です。居心地のよい場所にいたいという思いは、居心地のよい空間を作りたいという欲求に真っ直ぐに結びついて、いつのまにか私は住宅建築家になっていたのでした。
 建築の設計は、工学的な専門知識を身につけ、経験を積み、建築的な思考を論理的に積み上げたり深めたりすることである程度のところまでいけるものですが、こと居心地を生み出すことに関しては、そういう勉強がまったく役に立ちません。必要なのは動物的な勘だけ。立派な理論も理屈も通らないだけに、建築家のセンスと本当の力量が露呈するところです。そう考えると、ちょっとこわいですね。

出典:『住宅読本』 著者:中村好文 第3章 居心地

 後半の文面を読むと、たしかにちょっとこわい。専門知識を身につけて、勉強を重ねても、居心地のような感覚でしかないものを形に表すのは、ほんとその人のセンス、力量を試されているような気がする。

 あちらこちらに主婦の心をくすぐるアイデアや工夫を満載した美しいシステムキッチンが相変わらず根強い人気を持っていても、それを私の設計する住宅に採用する気持ちにはとてもなれません。隅々まで磨きたてられ、整然と整理整頓され過ぎているシラッとした写真を見るだけで、台所は、散らかすことを気にせず笑顔と鼻歌まじりで愉しく料理をつくる場所、と考えている私には、なんだか腫れ物に触るようで、せっかくの明るい料理気分がヒンヤリ冷えてしまうからです。
(中略)
 鍋釜をはじめ調理道具の多くが露出していて、いつでもシェフ待ち状態の台所は、見ようによっては雑然と散らかって見えますが、見方を変えれば活気に満ちていると言えなくもありません。画家や彫刻家の住宅などを想像してもらえればお分かりいただけると思うのですが、アトリエという空間に特別な魅力を感じたりするのは、そこが真剣勝負の制作の場であることが一目にして了解できるからです。台所も一種の制作の場、すなわちアトリエと考えれば、その場所は生き生きしたモノ作りの雰囲気に包まれていて欲しいと私は思います。

出典:『住宅読本』 著者:中村好文 第6章 台所&食卓

 これは同感で、映えを求めようとすればするほど前半のような台所が生まれるのかも知れないが、実際、自炊をしていて思うのは、どんなに気を使っても、物が散らかったり、油が跳ねたり、吹きこぼれたり必ず汚れる。調理が終わった後は片付けるけど、使いやすいようにすぐ取り出せるように雑然と物をおいているのは間違いない。活気に満ちているとは思うが、常に整頓され美しいキッチンを維持される方もいると思うので、価値観の違いかも知れない。

 住み継ぐ作法は、日本のように土地の値段が変動しやすく、住まいに対する意識も価値観も世の中の風潮に左右されやすい国では身に付きにくいものかも知れません。知り合いに百年以上経つ古い民家を改修しつつ住み継いでいる人もいますが、それはごくめずらしい例で、詳しい数字は知りませんがヨーロッパ諸国などと較べたらその割合は極端に低いようです。
 一方、日本で住宅の建設にかかる費用ですが、これは欧米に較べたら比較にならないぐらい高いと言われています。つまり、私たち日本人は高いお金を払って手間と時間をかけて建てた家を、ごく短期間住んだだけで廃棄しているということになるわけです。ずいぶんもったいない話ですね。どうせ家をつくるなら、これからは「住み継ぐ」ことを前提にした、いろんな意味で長もちのする住宅にしたいものです。
(中略)
 その家をどんな材料でつくるかという問題もあります。ここも重要なポイントです。私の場合、何をおいても家は手入れのしがいのある材料、住み込むほどに味わいを増す材料でつくりたいと考えています。そしてそれは、高価な素材でなくても、小綺麗な材料でなくてもいいのです。そんなことより、私には時間とともに愛着の深まっていく素材を吟味して使うことのほうが、大切に思えます。昔の人のように、毎日、糠袋や雑巾で床や柱を磨きたてるのはもちろん不可能ですが、時々でも磨いてやったらそれに応えてくれるような素材でできている家は、なんとなく懐かしい趣きと、頼もしい感じがあるものです。そんななかから「家を育てるという気持ち」も芽生えてくるのではないでしょうか。

出典:『住宅読本』 著者:中村好文 第11章 住み継ぐ

 この本を購入した当時は想像すらしていなかったが、今まさに『住み継ぐ』ことを実践している。築44年の中古住宅を自分たちの手で手入れし、既存の間取りを変えずにそのまま活用しながら、不要なものは取り外し、必要なものを付け加え、自分たちが心地の良い空間を創り出している。手をかけたぶん愛着も沸くし、ほんとうに『家を育てるという気持ち』が芽生えてきている。

 新しい学びも必要だけど、もう一度あらためて振り返ることで再発見できたことは良かったと思う。



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