オンド・マルトノは電気鐘の響きを奏でるか? ―黛敏郎と二つの電子楽器―
一九五四年、春の京都で一本の映画が製作されていた。
大映京都製作の、京都島原遊郭を舞台にした風俗喜劇で、題名を『噂の女』という。脚本は依田義賢と成沢昌茂。島原で置屋を営む女将に田中絹代が、家業に反発し東京の音楽大学へと進んだ娘に久我美子が配役されていた。監督は溝口健二。一九五二年より、ヴェネツィア国際映画祭での入賞を重ねており、その信奉者をヨーロッパ、特にフランス国内で確実に増やしつつあった。この年の『カイエ・デュ・シネマ』十一月号に「われわれが知っている日本の映画監督の中では溝口だけが、エキゾチズムという魅力的だがマイナーな段階を決定的に乗り越え、より根源的なレベルに達している」[1]との評が掲載され、これは後にジャン=リュック・ゴダールによって引用されることになるだろう。ゴダール、ビクトル・エリセ、テオ・アンゲロプロス。世界中の名だたる監督たちが深甚な尊敬とともにその名を口にする、「世界のミゾグチ」像がまさに形成されようとしていた。
溝口の創作史を俯瞰しても、直前に『山椒大夫』、直後に『近松物語』が撮られたこの頃が、二年半後の骨髄性白血病による死を目前にしての、生涯何度目かの絶頂期であったことは疑いない。「ブレッソンのような映画作家が仕上げるのに二年も必要とするような映画を、彼は三ヶ月で撮りあげることが出来るからである。しかも、それを完璧な映画に仕上げるのである」[2](ゴダール)。ただ、『噂の女』の音楽担当者決定にはちょっとした曲折があった。台本はひとたび、それまで五本の映画で仕事を共にしていた早坂文雄(1914-1955)へと送られたものの、結局早坂は『噂の女』から降板させられることになる[3]。この頃の早坂は、黒澤明の『七人の侍』という一世一代の大仕事に忙殺され、他の作品に振り向ける余裕を欠いていた。しびれを切らした溝口が白羽の矢を立てたのが、当時二十五歳の黛敏郎その人である。
黛が音楽担当者として大映京都の撮影所に現われた時のことを、大映京都、日活、フリーと活動の場所を移しつつ、日本映画の現場を支え続けた録音技師:橋本文雄は、――彼の後輩格である録音技師の神保小四郎からの伝聞という形ではあるが――次のように伝えている。
黛さんは、当時、フランス留学から帰られたばかりで、まだ二十代でしたか、それで大映京都の撮影所に現われたときに、カールの架かった長い髪、黒のピチピチのズボンに、爪に真っ黒のマニュキュアという過激な格好をされていた(笑)。時代劇専門の活動屋さんたちは、もう、口をあんぐり開けてびっくり。ところが溝口さんだけそうじゃないんです。あの人は新しいもの好きだから、そのスタイルがすっかり気に入って、いっぺんで黛さんにイカれてしまった(笑)。[4]
「完璧な映画」を生み出す昔かたぎの活動屋たちの前に現われた黒衣のアプレゲール。そんな黛にイカれた溝口は、確かに新しいもの好きの作家だった。そして、この溝口の志向を最も色濃く反映しているのが、彼の映画における音楽の扱いである。優れた耳を持っていたものの音楽については門外漢であった溝口は、既成の作品を提示して同種の音楽を求める、所謂テンプトラックによる提案を行うことがなかったし、その進取の気風ゆえに、音楽担当者の相当な冒険を許す度量があった。たとえば、早坂文雄は、溝口健二と黒澤明の、それぞれ八本の映画[5]に音楽を提供しているが、その仕事が過激な実験性を帯びるのは主に溝口との仕事に於いてである(例として『雨月物語』と『近松物語』の二本を挙げておこう)。さらに橋本の言葉を引く。
そのとき黛さんは、クラビオンという、まだ出だしの頃の電子楽器を持ってきて、それを使ったんですが、溝口さんはそれがすっかり気にいってしまった。オルガンみたいな音で、プーピーポーピーなんて音を出すだけなんだけど、「これは、女の哀れさが出ている、いい音です」という(笑)。[6]
わが国最初のミュジック・コンクレートと(狭義の)電子音楽をともに作曲した作曲家として、黛の名は日本の音楽史に永く刻まれるに違いない。現在の感覚からは想像すら難しいことだが、この二つの音楽は異なる美学に立脚しており、本場ヨーロッパでは、それぞれの陣営にわかれて激しく対立していた。そうした音楽に、わずか三年ほどの期間のうちに、ともに先鞭をつけたというのは、それらが多分に調査的かつ啓蒙的な意味合いを含む仕事であったにしても、げに驚くべき成果という他ない。黛もまた、溝口に勝るとも劣らぬ新しいもの好きだった。しかしながら、黛敏郎が日本の音楽界にもたらしたものはこれだけではない。黛は、クラヴィオリンとオンド・マルトノという二つの電子楽器を誰よりも早く日本へ持ち込んだ(あるいは輸入を働きかけた)人物でもある。本稿は、これら二つの電子楽器を通じて、黛敏郎の音楽を捉えなおしてみようというささやかな試みである。
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まずはクラヴィオリンのことより始めよう。溝口健二が「女の哀れさが出ている」と、音色を愛でたこの電子楽器は、一九四七年にフランスのヴェルサイユにて、技術者:コンスタン・マルタン(1910-1995)によって発明された。楽器は、奏者が演奏に際し様々なコントロールを行う鍵盤部と、発音増幅を行う電源部からなり、そのどちらもが真空管を含む回路で構成されていた。この楽器もまた、当時の電子楽器の多くがそうであったように、単音での発音しか出来ない。標準的なモデルには三オクターブ(36鍵)にわたる鍵盤があったが、この鍵盤にしても、通常のピアノに比べると随分と小振りなものである。また、楽器本来の音域から、上下にそれぞれ一オクターブずつの移高を行い、五オクターブをカバーすることが出来た。
特筆すべきは、楽器前面に奏者と正対するように並んだストップと呼ばれる18個のスイッチで、奏者はこれのオンオフを組み合わせ、音色を多彩に変化させることが出来た(とはいっても、後述のクラヴィオリン奏者の小島策朗によれば、そのどれもが「いかにもクラヴィオリン」といった音色に落ち着いてしまったというが)。この「ストップ」という呼称は、パイプオルガンの音色を制御するストップ=音栓に由来するものだろう。後年にはさらに4つのストップを加えたものも発売されている。18個のストップのうち14個は、ブザー音を思わすこの楽器本来の矩形波的な発振音を変えるためにあり、残りの4個はヴィブラートの周期と振幅を決め、付加するためにあった。鍵盤部の下部には、足踏みオルガン(かつて小学校の教室にこうしたオルガンがあったことをご記憶の方も多かろう)に搭載されていたような膝レバーがあり、これを動かすことで、発音のアタックの硬軟を変化させることも出来た[7]。よって、この楽器をアナログ・シンセサイザーのはしりと評価することも可能だろう。クラヴィオリンは、世界五ヶ国の五つの会社で製品化され、累計出荷台数は三万台以上にもなった。一九五〇年代より今日に至るまで、クラヴィオリン演奏の第一人者として活躍するオルガン奏者の小島策朗によれば、この楽器を、日本人としていち早く入手した人物が黛敏郎だったという[8]。
黛は、『エクトプラスム』(1954)『ミクロコスモス』(1957)と演奏会用の作品でクラヴィオリンを用いるのみでなく、『噂の女』をはじめとする、映画音楽制作の現場にもこれを持ち込んだ。溝口健二の遺作ともなった『赤線地帯』(1956)で、黛は再び溝口と組むことになるが、ここでの音楽はさらに過激だ。12音技法を援用し、クラヴィオリンやミュージカル・ソウ(のこぎりを弦楽器用の弓で弾くことにより、あたかもテルミンのような音を出す)を駆使した「画面を冷笑するような」[9]音楽が全編を貫き、これに否定的な見解を示した津村秀夫との論争を惹起することにもなる。他の日本の作曲家では、松村禎三(1929-2007)が『クリプトガム』(1958)で、鈴木博義(1931-2006)が『ポリクロームとモノクローム』(1954)で使用していることが目を惹く。だが、この楽器の真の活躍の場は現代音楽の世界の外にあったというべきだろう。『有楽町で逢いましょう』(1957)、『いつでも夢を』(1962)といった歌謡曲の作曲で知られ、後に国民栄誉賞を受賞する吉田正(1921-1998)が、自身の楽曲で好んで使用し、クラヴィオリンの音色は、一九五六年から五九年にかけ、歌謡曲/映画音楽の世界で爆発的に流行することになった。海外をみても、一九六七年録音のビートルズの楽曲『ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン』でジョン・レノン(1940-1980)が演奏し、サン・ラ(1914-1993)も自身の録音で使用するなど、ポピュラー畑での使用が目立っている。
しかしながら、黛がクラヴィオリンにそれほどの愛着をもっていたようには思えない。一九五〇年代、黛が好んで用いたクラヴィオリンや、ミュージカル・ソウは、当時の日本に存在しなかった、オンド・マルトノの代用として使われていたと考えるのが自然である。一九五九年の春に、NHKは松尾楽器商会を通じようやくオンド・マルトノを購入するに至ったが、これは黛の強い要望があってのことという[10]。後年、自身が司会・構成をつとめたテレビ番組『題名のない音楽会』で『エクトプラスム』を再演した際も、黛は初演・レコード録音で使われたクラヴィオリンではなく、オンド・マルトノを用いている。
加えて、黛は日本人として初めてオンド・マルトノを使った楽曲を作曲し、さらには最初の演奏者ともなった。一九五九年四月十日の、皇太子:明仁親王と正田美智子さん(当時)のご成婚を記念して、NHKはご成婚当日夜に祝賀演奏会を行い、テレビ・ラジオの同時中継でこの模様を放送した。この演奏会のためにNHKより新曲を委嘱されたのが黛であり、この新作『祝婚歌』で彼は輸入されたばかりのオンド・マルトノを編成に組み込むのみならず、自らこれを演奏したのである。以下は、秋山邦晴による回想である。
皇太子の婚礼もさし迫ったある日の午後、N響練習所で、三島由紀夫・作詞、黛敏郎・作曲の「祝奉カンタータ」の最後の練習がやられていた。弦をのぞいて、管楽器、打楽器それにピアノ、チェレスタなどの特殊編成のオーケストラ、それに男声コーラス、女声コーラスそれぞれ3、40人のかなり大きな編成である。指揮者シュヒターの右わきには、天平時代風のフォルム、あるいは琵琶をおもわせる木製の共鳴箱とスピーカー附の、ちょうど小型ピアノのいった鍵盤楽器がおかれている。そこに黛敏郎君の顔がいる。シュヒターの棒の動きを捉えながら、鍵盤前のゴム線のつまみをすべらしてポルタメントを奏し、忙しそうに、左手で紅白ボタンを押しかえている。一月ほどまえ輸入されたばかりのこの電気楽器オンド・マルトゥノのわが国で最初の演奏者として、かれは何に臆することなくやっている。おそらく、この楽器について、それほど練習し、手がけるひまはなかっただろうに、はたから見ていると、その落ち着いた態度は、男性である僕でさえも魅力を感じてしまう。でも、こんなことは、黛敏郎にとっては、別にとりたてることでもなんでもないことなのだ[11]。
演奏者は他に、NHK交響楽団、東京放送合唱団、東京混声合唱団、二期会合唱団。指揮のヴィルヘルム・シュヒターは、二月に常任指揮者に就任したばかり。この十日ほど後に、この年に尾高賞を受賞した『涅槃交響曲』(1958)の指揮をすることにもなる。三島由紀夫による詞は日本書紀中の勾大兄皇子と春日山田皇女との相聞歌のパロディ。相聞には、互いに安否を問い消息を通じ合うという意味があり、くだけば、いにしえのラブレターともいえよう。楽曲は、二卵性双生児のような二つの部分が続いて演奏される構成で、前半が男声による女性への問いかけ、後半は女声による返歌となっていた。素材を意識してか、雅楽的な語法が全面的に採用され、管・打楽器を主体とした特殊な編成も、雅楽の楽器編成を下敷きにしたものと考えられよう。遺されたスコアから想像されるのは、松平頼則の『催馬楽によるメタモルフォーズ』(1953/58)を思わす音世界であるが、曖昧さのない確固としたリズムで構成された点は、木琴・チェレスタ・ピアノで演奏される装飾的な音型とともに、紛れもない黛の個性の発露であり、後の作品『BUGAKU』(1962)を予感させている。この作品で、オンド・マルトノは、雅楽由来のスライドする音程を伴った合唱とともに動き、その旋律線を補強し際立たせる役割を持つが、前半・後半にそれぞれ一箇所ずつ短めのソロも用意されていた[12]。
オンド・マルトノの最重要レパートリーである、メシアンの『トゥーランガリーラ交響曲』(1949)をアマチュア・オーケストラが演奏し、池辺晋一郎作曲によるNHK大河ドラマのテーマ曲でその音を聴くことが出来る今日、この楽器は一九五九年当時とは比べ物にならないほど広く認知されている。鍵盤と、ポルタメント演奏を可能にするリボンと呼ばれる部分(ちなみに、上記秋山による回想に、「鍵盤前のゴム線」との記述があるが、このリボンは通常、伸び縮みしない紐に金属のコーティングを施したもので、秋山の事実誤認であろう)を併せ持ち、幾つかの変わったフォルムのスピーカーを持つ優美な楽器の姿を、気の利いたクラシック・ファンなら誰もが思い浮かべることが出来るはずだ。しかしながら、この楽器をリボンという特殊な機能が付加されたアナログ・シンセサイザーのように考えるなら、オンド・マルトノという楽器の本質も、演奏の難しさも、見誤ってしまうだろう。
その若き日に、ブルーコーツの初代ピアニストとして活躍した経歴を持つ黛が、ピアノ演奏についても優れた技倆をもっていたことは論ずるまでもない。しかしながら、ピアノが弾けるということは、必ずしもオンド・マルトノが弾けるということを意味しない。オンド・マルトノが輸入されて以来、ほぼ独学でこの楽器に取り組み、一九六二年七月四日の『トゥーランガリーラ交響曲』の日本初演(指揮:小澤征爾、ピアノ:イヴォンヌ・ロリオ、NHK交響楽団、東京文化会館)でオンド・マルトノを担当した本荘玲子(彼女は本来、N響所属のピアニストだった)もまた、こう語る。
マルトゥノを黛さんがひいたり、私がひいたりしますので、ピアノの人ならすぐにマルトゥノが演奏出来ると思う方がよくいらっしゃいますが、大変な間違えです。殊にリボンと増幅器に要するテクニックは、丁度ヴァイオリン奏法のそれと同じようなものです。パリで私がマルトゥノ氏の教室に伺った時、リボンの上昇の際と、下降の際の肩の力の抜き方の違いを、半日かかって教えて頂いたりしました[13]。
本荘の発言の意味するところは、この楽器の歴史を紐解けばより明瞭になるだろう。オンド・マルトノは、一九二八年に、フランスの無線技師でチェロ演奏家、音楽教育家でもあったモリス・マルトノ(1898-1980)によって発明された電子楽器である。オンド・マルトノとは仏語で「マルトノの電波」との意味をもつが、この呼称が使われ始めたのは後のことで、発表当時は「オンド・ミュジカル(音楽的電波)」と呼ばれていた。当時のこの楽器は、現在の形とは似ても似つかぬもので、残された演奏風景の写真を見る者は、テルミンのそれと見紛うかもしれない。あるべき鍵盤はそこになく、まず目を惹くのは、空中に張られたワイヤー(「リボン」)である。右手にはめた「リング」をこのリボンに接触させ、電気伝導率を変化させることで音程を制御するのである。つまり、現在のオンド・マルトノにおけるリボン奏法にこそ、この楽器の起源はあった。この楽器を特徴付ける奇妙な形のスピーカーもまた、当時は存在しなかった(スピーカーに銅鑼を仕込み、音色を金属的なものへと変える「メタリック・スピーカー」の開発が一九三二年、共鳴胴の表裏に、オクターブを構成する12音に対応する12本の共鳴弦を張った「パルム・スピーカー」が開発されたのが一九四〇年頃である)。
しかしながら、この楽器が空中で手をかざすのではない別の方法で音程を変えるだけの、テルミンの亜種ともいえる楽器だったのかといえば、そうではない。確かに、テルミンとオンド・マルトノは、共に、発音にヘテロダインと呼ばれる、二つの高周波数発振器から発振される波形を掛け合わせ、新たな周波数を持つ波形を得るシステムを採用している(物理的事実を補足すると、この場合、二つの発振器の周波数の和と差の周波数を持つ波形が出力されるが、この場合、和に当たる周波数は可聴域外にあり、差に当たる周波数のみが出力に使われる)。ヘテロダインの採用は、限られた発振器をもって、幅広い音域をカバーしようと考えるなら、極めて合理的な技術的判断といえる、が、出力される波形は常に一つとなり、それゆえにテルミンとオンド・マルトノは(現行のモデルでも)単音での発音しか出来ない。
では、この二つの楽器の決定的差異となり、オンド・マルトノのアイデンティティともいえる機能は何なのか。それは、左手で操作する小箱に据えられたトゥッシュと呼ばれるボタンである。トゥッシュとは、英語でいうところのタッチに相当するフランス語で、このボタンを押し込むことで、電気容量を変化させ、音の強弱を瞬時に変える事が出来る。このことにより、発音のイントネーションや減衰のエンヴェロープ(後述)を、クラヴィオリンのそれとは比較にならない精度で彫琢することが可能であった。例えばチェロの演奏では、同じ音を弾くにしてもボウイング(弓捌き)一つで、スタッカート、レガート、マルカート、様々な発音のイントネーションを作り出すことが出来る。これは、ピアノにおけるタッチ、管楽器におけるタンギングとも同様で、特に発音時のイントネーションを高精度にコントロールすることは、最優秀のプロフェッショナルが血道をあげて取り組む重要な課題である。マルトノが実現したのは、まさにそうしたイントネーションの微細な変化を電気的に作り出すことであった。初期の数々の電子楽器の中にあって、オンド・マルトノで奏でられる音楽が「音楽的」とされ、群を抜いて優れたレパートリーが提供された理由はまさにここにある。
オンドマルトノの演奏風景 左手の人差し指がかかった黒いボタンがトゥッシュである(大矢素子氏提供)
よって、オンド・マルトノとは、鍵盤楽器というより、むしろ弦楽器に近いコンセプトをもって開発された楽器といえるだろう(マルトノ自身がチェロ奏者であったことを思い出すとしよう)。よって、チェロのボウイングの技術が演奏家の死命をわけるように、オンド・マルトノ演奏においては、トゥッシュの技術を極め、自在に音のかたちを作れることが大切なのである。一九三〇年に開発された第三モデルに鍵盤が装着され、三一年の第四モデルに、各鍵盤を上下左右に微妙に震わすことで、音程をヴィブラート的に変化させることが出来る、「揺れる鍵盤」という極めて独創的な技術が導入された後も、トゥッシュという本質は堅持された。本荘が感じたオンド・マルトノの難しさとは、一見、鍵盤楽器の貌をもちながらも、鍵盤のタッチとは別のところで音を作る操作を行わなくてはならないという、この楽器のコンセプトにあったのだ(加えて、一九七〇年代に入って開発された第七モデル以前のオンド・マルトノは、真空管によって発振を行っていたので、音程が安定しないという難しさもあった。これは現代の楽器では改善されているとはいえ、未だにオンド・マルトノとはシンセサイザーのように確固たるピッチを出力する楽器ではなく、奏者の音感に頼るところが大である)。
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電子音楽に関連して黛の業績を評価する上で最も重要なことは、彼が音現象の動的な挙動に意識的にコミットした、ほとんど最初の作曲家だということだ。一九五〇年代の音楽界には、周波数の異なる複数のサイン波を重ね合わせることで、どんな音色でも作り出せるという言説があった。これが可能なら、厳密な形で音色のレシピ(周波数毎のサイン波の配分比)を指定することで、曖昧さのない音色の指定を行うことが出来るはずだ。詳しい説明は別稿を参照頂きたいが[14]、音現象が定常状態、つまり、一定の大きさで揺れもせずに在る場合については、サイン波による音響合成はかなり上手くいく(ただし、一九五〇年代の技術的制約のもとではほぼ不可能だったとも考えられる)。しかしながら、音とは、発音の瞬間から消え入るまでの間に驚くほどの変化をしているものだ。一例として、ピアノの単音を発し、音の出から2秒間という比較的長い間の波形を示してみよう[図一]。
図1
縦軸は音圧、横軸は時間を表している。発音の直後から、音が次第に減衰していることが見て取れるだろう。激しく振動するグラフがあたかもラッパ型の外形をもっているかのようで、この外形をエンヴェロープ(包絡線)という。よって、エンヴェロープとは、細かく振動するグラフの束が大局的にどのように振る舞うのかを表現する言葉となっている。
図2
図3
図一の波形の一部分を、ごく短いスパンで切り出したのが図二と図三である。図二は音を発した直後からの0.03秒間、図三は発音より二秒ほどしてからの0.03秒間の音圧の振る舞いを記述したものである(ただし、グラフを見やすいように縦方向については適宜拡大を行っている)。これを見ると、同じピアノの音でも、立ち上がりとその後で、随分異なっていることがわかる。グラフの形の違いが音色の違いに相当するので、両者は音圧だけでなく、音色も違っているともいえる。つまり、動的な振舞いまで視野に入れるならば、右に示したように、音の様相は極めて複雑なものになるということだ。その複雑さを含めて、何らかのパラメータを当てはめ制御していくことは、ほとんど不可能といえる程に難しい業となる。
さらに、音を出す物体が巨大なもの――例えば梵鐘など――になると、その巨大さゆえに打撃の振動が瞬時に全体に伝わらず、物体はいわば斑に振動することになる。こうした場合、音の動的な挙動は、上記のピアノの挙動より、遥かに複雑なものになるだろう。言い換えれば、このような巨大な物体のつくる響きを解析するならば、音の動的な性質の難しさに否応なく気付かざるを得ない。ゆえに、梵鐘への興味こそが、黛をして音の動的な挙動に注目させ、カンパノロジーという未踏の術にたどり着かせたともいえよう。『涅槃交響曲』の梵鐘の響きの経時的変化を写し取ろうと足掻くかのようなオーケストレーションは、それがどこまで実際の鐘の音に肉薄しているかはさておき、先駆的であり、かつ素晴らしいものであることは間違いない。そして、さらに、音の動的な挙動が、聴取にとって本質的な意味を持つことを明らかにした作品として、『ミュジック・コンクレートによるカンパノロジー』(1959)『オリンピック・カンパノロジー』(1964)が挙げられるだろう。これらに於いては、鐘の響きの定常的な部分はテープ速度の変化で移高可能だが、アタックの部分は移高によって全く別のイントネーションへと変化してしまうため、移高後の鐘の音のアタックの部分だけを差し替えるという操作が行われている。
黛とともに音の動的な挙動の解析に当たったNHK電子音楽スタジオ内では、音についての知見を積み重ねる中、「何かにエネルギーを与えてそのエネルギーが効率よく空気振動になるまでの瞬間に音の命が与えられるので、連続した発振音を使った、シンセサイザーの音は永久に生命のない音である」[15]といった見解すら生まれたという。これは、NHKの技術者であった塩谷宏の理論として、同じ職にあった佐藤茂が紹介しているものである。この見解に対する賛否はさておくとして、音の動的な挙動こそが、音に生命を吹き込むとされていた点に注意しなくてはならない。後の黛自身にも似た発言がある。「実は今のシンセサイザーに不満があるわけです。これだけテクノロジーが発達しているのに、シンセサイザーで作り出せる音は、未だに生で作る音というものを凌駕していない」[16]。これが、YMOブームが一段落し、坂本龍一を『題名のない音楽会』に招いた時期の発言であることは注目に値しよう。
さて、本稿では、一九五〇年代の黛敏郎が、クラヴィオリンとオンド・マルトノという二つの電子楽器を日本へと持ち込んだ(あるいは持ち込みに尽力した)ことを紹介した。では、なぜクラヴィオリンではなくオンド・マルトノだったのか?この答えは、電子音楽家としての黛が、音の動的な挙動に拘り続けたことを考えるなら、自ずと明らかになるはずだ。彼が求めていたのは、決して新しい音楽素材としての電子音ではなく、それゆえにクラヴィオリンにもシンセサイザーにも満足することはなかった。移高した鐘の音のアタックだけを付け替える操作のような、音の動的な挙動への黛の拘りを形にする電子楽器こそが必要だったのだ。もちろん、フランス帰りで、メシアンへの尊敬の念を隠すことがなかった黛に(『涅槃交響曲』のスコアを分析するものは、その中の逆行不可能なリズムが配された箇所などに、メシアンへの強烈なリスペクトを見出すだろう)、それゆえのオンド・マルトノへの憧憬がなかったとはいえない。だが、何よりも重要なのは、オンド・マルトノこそが、黛の思惟と肉体を結びつける唯一の電子楽器であり、この楽器のトゥッシュという機能の中に、黛が音の生命を創る術を見出したということなのだ。
一九九四年九月十七日、黛が電子楽器を用いた最後の作品であるオラトリオ『京都1200年<伝統と創生>』が京都会館にて初演された。井上道義指揮の京都市響、混声合唱の京都エコー、語りの西村晃らの中に、真の意味でわが国最初のオンド・マルトノのスペシャリストといえる、原田節の姿があった。黛敏郎(1929-1997)。この新しいもの好きで、日本の音楽界に数多のものをもたらした作曲家は、自らが使う最後の電子楽器に、この、音の動的な挙動を奏者が自在に彫琢できる―いささか古いが比類のないコンセプトを持つ―電子楽器を選んだのだ。
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謝辞:オンド・マルトノ奏者/研究家の大矢素子氏には、本文中の写真を提供の上、筆者の質問に答えて頂くなど、本稿の執筆に当たって貴重な示唆を頂きました。この場を借りて特に御礼申し上げます。
【註1】J.L.ゴダール、奥村昭夫訳「溝口―彼は日本の最も偉大な映画作家だった。シネマテークは哀悼の意を表す。」 『ゴダール全評論・全発言Ⅰ1950-1967』筑摩書房(1998) 二三八頁
【註2】註1に同じ 二三七頁
【註3】西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄 風のように侍は-』筑摩書房(2005)
【註4】橋本文雄 上野昂志『ええ音やないか 橋本文雄・録音技師一代』リトル・モア(1996) 七一頁
【註5】溝口健二『雪夫人絵図』(五〇)『お遊さま』(五一)『武蔵野夫人』(五一)『雨月物語』(五三)『山椒大夫』(五四)『近松物語』(五四)『楊貴妃』(五五)『新・平家物語』(五五)、黒澤明『酔いどれ天使』(四八)『野良犬』(四九)『醜聞』(五〇)『羅生門』(五〇)『白痴』(五一)『生きる』(五二)『七人の侍』(五四)『生きものの記録』(五五)
【註6】註4に同じ
【註7】http://www.soundonsound.com/sos/mar07/articles/clavioline.htm この中で、クラヴィオリンの膝レバーでの役割を弦楽器のボウイングと比している箇所があるが、この比較に相応しいのはむしろオンド・マルトノのトゥッシュの機能であろう。
【註8】http://ifukube-official.kifu.officelive.com/interview_1_2.aspx (二〇一一年七月三十一日アクセス)
【註9】秋山邦晴「日本映画音楽史を形作る人々16 黛敏郎 その2『赤線地帯』論争」 『キネマ旬報』六百七号(1973)二八頁
【註10】大矢素子『オンド・マルトノの軌跡-日本における70年-』東京芸術大学修士論文 「オンド・マルトノの輸入を強く黛が求めた」という点は、この論文の中のハラダタカシ(原田節)による証言を参考にした。原田はオンド・マルトノ輸入の頃をリアルタイムで知る世代ではないが、存命中の黛とのコラボレーションも行っており、その証言には相当の信憑性があると筆者は考える。また、本文これ以降のオンド・マルトノについての解説は、この論文に多くを拠っている。
【註11】秋山邦晴 「黛敏郎論」『フィルハーモニー』4月号 NHK交響楽団(1959) 八頁
【註12】自筆譜:明治学院大学図書館付属日本近代音楽館蔵
【註13】本荘玲子 「オンド・マルトゥノ―トゥランガリラ交響曲に出演して―」『フィルハーモニー』七・八月号 NHK交響楽団(1962) 三三頁
【註14】石塚潤一 「豊饒なる音響の海へと船出せよ」 川崎弘二編・著:『日本の電子音楽 増補改訂版』愛育社(2009) 六二‐九七頁
【註15】佐藤茂 『音の始源を求めて ―塩谷宏の仕事―』ブックレット サウンドスリー(1993/2001)
【註16】黛敏郎 金森隆「コンピュータ・ミュージックの世界にバッハはまだ現われていない」『イプシロン』一巻三号(1987)
#2011年8月 川崎弘二編「黛敏郎の電子音楽」へ寄稿
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