#76 『無価値』の『価値』
皆さんこんばんは!
最近はyoutube編集にハマってしまい文章を書くことが疎かになっていましたが、今日は『無価値』の『価値』というテーマで話していきたいと思います。
『無価値』の『価値』とは
無価値の価値という言葉自体、さっき僕の頭の中に閃いた言葉なのですが、無知の知と呼ばれるソクラテスの有名な言葉に似ているかなと思っています。
ソクラテスは『無知であることを知っていること』が重要だと言うことを述べており、「知らないこと」よりも「知らないことを知らないこと」の方が罪深いということを説いています。
それと同じような解釈で、『無価値』の『価値』とは無価値であることに価値があるということ、、、無価値というものを知っている人は本当に価値のあるものを手に入れれるのではないかと僕は思います。
この間話した#74ずるい!羨ましい!って感じた瞬間が最大のチャンス!という記事でも少しお話した内容ですが、、、
↓↓↓
人間は生きる上で否が応でも、数々の価値観を植え付けられてきました。
その大半が実はどうでもよい価値観なんですよね。
前に取り上げた『女子力』『男子力』もその価値観の1つですが、人間って生きている限り、社会的なものである限りは、まっとうなフリをしなければいけない。ちゃんとした人間であらねばならない。
というおかしな価値観に囚われて、それを良しとする時代が続いてきました。常識的なことをして他者から評価を得て、自分を満たしていくのは正直かなりしんどいし、辛いし、孤独を感じる一つの大きな要因になっているとさえ思えます。
大多数の多くの人は、他者目線で自己評価や自分の存在の価値や、点数をつけがちで、何で自分の人生なのに、他者からの評価で人生の点数をつけようとしているのか?正直、僕もそういうところがあると思います。
ただ他者にゆだねた人生ってどうなるかっていうと、さっきも書きましたが本当にしんどいんですよね。
僕も自分磨きとかしていますが、最初はそういう観点でやっていた時期もありますが、今はただ自分が楽しくてやっているし、主観で判断してやりたいことをやっているので、そういうしんどさからはだいぶ解放されてはきました。
僕がここで話す『無価値』っていう表現は、生まれてからずっと他者(親・先生・世間)によって作られてきた価値のことを言います。
元々は価値なんてものはまっさらな状態では何もないですし、色々な人達や関係性によって、その価値は植え付けられてきました。だから本当なら価値なんていうものはないし、無価値という状態まで今までかけられてきた価値の色メガネやフィルターを外した時に、初めて自分が見つけたい価値・手に入れたい価値というものが現われるんじゃないかと思います。
そうは言っても周りの目は気になるし、耐えられないから、結局その他大勢と同じ方向を向いていくんですよね。
でも結局それって周りの誰かに愛されようとする行為で、だからまたしんどくなって、辛くなってしまうんですよね。
・・・なんか違いますよね。
でもこれってどういうことだと思いますか?
自分がみんながカッコイイと思った人をカッコイイと思わないことは許されない。みんなが美味しいと言っているお店を美味しいと言わないことは許されない。ここに囚われているんだと思います。
結局は自分が自分の『別の人がカッコイイだったり、別のお店の方が美味しいのに』っていう感情を許していないってことなんですよね。
その自分が囚われている感情を許した時にはじめて、みんながカッコイイと思っている人や美味しいと言っているお店がどうでもよくなるんですよね。
こうすることで変な価値観が壊れ、その価値観は無価値へと戻ります。
そして無価値になった時にはじめて、自分にとって価値のあるカッコイイ人、価値のある本当に美味しい店に価値をしっかりと置くことができるのだと考えます。
まどろっこしくなりましたが、本当の価値は自分の価値観がまっさらな状態でしか選ぶことが難しいということをお伝えしたかったのです。
自分を感情を許すということが、複雑な価値観ががんじがらめになっている今、本当に大切なことなんじゃないかなと思います。
『無価値』の『価値』は、植え付けられた価値を無価値の状態にする作業で、日々ある価値観を常に客観的に見て、自分の主観がその価値観を価値のないものだと考えることを許さないという状態から、その許さない自分の感情を許してまっさらな状態で物事を考えられるようにしていきたいです。
かなり抽象的な話になってしまいましたが、さっき頭の中でこれを考えていて、書きたいなと思い、まとまらずに書き綴ってしまい理解し辛い内容になってしまったことお許しください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?