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藍 宇江魚
2021年7月31日 22:14
根津。 夏の午後。 虫籠売りの蛻吉(ぜいきち)は、蟲魂商いの上客の一人である御前の屋敷を尋ねた。「虫籠売りの蛻吉でございます。御門番様。御前様にお取次ぎをお願い致します」 裏木戸を数度叩いたが、反応がない。「御門番様。蛻吉にございます」 裏木戸の門番は居眠りをしていることが多い。そんな時でも、木戸を数度叩くと表に出て来るのが普通だが、その日に限って何の音沙汰も無かった。 …こいつは
2021年8月7日 00:30
蛻吉たちは、根津の御前屋敷の表玄関の前に立っていた。「随分すんなりと入れたわねぇ…」 あさり、ちょっと拍子抜けの表情。「入れたより、入れてくれたって言う方が近いと思うぜ」 蛻吉、ニヤニヤ。「とんでもないお化けが、入って来る人間を待ち構えてるということでしょうか?」 伊織、にこやかに笑っているが腰が引け気味。 ガザミ、蛻吉の懐の中で遊ぶ。「まぁ兎も角、中へ入らない事には始らないぜ」
2021年8月14日 23:50
伊織とあさりは畳敷の回廊を歩き続けていた。「あさり殿」「もう。あさりって、呼び捨てで良いわよ」「あぁ。では、あさりさん」「…」「会って間もないのに呼び捨てというのも気が引けるので…」「まぁ、良いけど。何?」「さっきから気になっているのですが、ずっと同じ所を歩いていませんか?」「そうみたいね」 あさりは立ち止まり、伊織の左手を見て言った。「あたしも伊織っちのことで気になっている
2021年8月21日 23:25
徳兵衛、蛻吉ともに9歳。 あさり、7歳。 三人、夏の午後に山中の廃寺にて。 あさりが泣いている。「あさり。どうした?」 彼女を慰める徳兵衛。 蛻吉は無表情で二人を見つめている。「虹色の蟲魂。逃がしたぁ」「虹色?」「うん」「よし。俺が獲って来てやる」「徳ちゃん。ほんとう?」「まかせとけ。蛻吉。行くぞッ」 徳兵衛、蛻吉の手を引っ張って山へ向かった。 廃寺の前。 草む
2021年8月30日 17:00
お勢は、夕餉を食する徳兵衛をジッと見つめている。 箸を口へ運ぶ手を休めて徳兵衛は、お勢の顔をみると微笑んで言った。「お勢。この煮つけ。とても美味しいよ」 お勢はちょっとがっかりした顔つきとなる。「どうしたんだい?」「…」「蛻吉にも食べて貰いたかったんだね?」 お勢、頷く。「仕事でね。蛻吉の奴。しばらく戻れないかもしれないねぇ」 お勢、更に深く項垂れ。「心配しなくてもお勢の気持
2021年9月7日 23:38
「まだ、屋敷から出て居らぬ筈じゃ。くまなく探せッ」 殺気だった伊予守の家臣数人が、繁みに身を潜めるあたりと横嶋の方の前を駆け去っていった。「やれやれ」 あさり、呟き。 肩の力を抜くとあさりは、背中にしがみつく横嶋の方を自分から引き剥がして言った。「気持ちは解るけど、しがみつかないで」 横嶋の方はガタガタ震えている。 …厄介なことになっちゃったなぁ… 半刻ほど前。 伊織とはぐれて
2021年9月17日 01:07
* 備中国、川嶋の庄。 その歳、備中国を旱魃が襲い町や村は大飢饉となった。「大刀自様。この先の村は飢饉で村人が死に絶えたそうに御座います。間もなく日が沈む刻限となります。近頃、この辺りに野盗の輩も横行しております故、お一人での出立は見合わせれては如何で御座いましょう」 旅籠の主は、草鞋の紐を結んでいる大刀自の出立を止めようと懸命に説得した。 紐を結び終えた大刀
2021年9月27日 02:04
* 三方の壁面に据え付けられた棚の虫籠は、全て壊されていた。 上座中央に座る御前の右掌の上には蛻吉が以前に売った蟲魂があった。 彼の前に据えられた小机の上には血魍魎の蟲魂が置かれ、黒地に深紅の斑模様が妖しく輝いていた。「蛻吉。久しいのう。この蟲魂を覚えておるかな?」「さて?」 惚けて答えた蛻吉に御前はニヤリと笑い、答えた。「その方が持参した三つの蟲魂。共喰いさ