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現代の日本人がカルトの標的になりやすい要因とその解決の鍵

この記事は、先日私がYouTubeにアップした動画「心で読み解く古代史#3」の続きの話です。
動画編集を勉強しながら動画を作っている関係で、時間がかかりすぎるため、当初予定していた内容の半分ほどをカットしました。
そのカットした部分を埋もれさせておくのももったいないので、こうしてnoteの記事にしようと思った次第です。この記事はこれ単体でまとめてあるので、動画は見なくても構いませんが、一応貼っておきます。

心で読み解く古代史#3 死人も生きかえる?神道と外来宗教の決定的な違い:天照大御神の神名の謎

では本題。

一部の宗教団体や宗派では、「執着を手放しなさい」「欲を捨てなさい」と教えています。しかし、これらの教えは後世の人々によって曲解され、誤って伝えられてしまったものです。そもそも「執着を捨てよう」と意識すること自体が執着であり、この矛盾に気付かないまま誤解が広まっています。

こうした間違った解釈に陥りやすい背景には、人間が抱える「欲」の正体についての理解不足があるように思います。自分自身を内観していくと、欲というものは、人がまだヒトになる以前の生物だった頃の本能が発する指令に過ぎないことがわかります。「子孫を残したい」「競争に勝ちたい」「何かを手に入れたい」という指令です。

この欲の正体を知ることで、欲に支配されている自分を客観的に見つめられるようになります。人が欲に支配されることわりを知る事。
欲そのものは捨てるべきものではありません。例えば「子孫を残したい」という欲を否定することは、生命の存在を否定することに等しいです。
欲とは本能が発する指令であり、執着とは、その欲の正体を認識できず、欲をコントロールできていない状態を指します。

もちろん、私にも欲はあります。
人や社会に迷惑をかけない範囲で、普通に人並みに欲を満たして生きています。

しかし執着心は、自分でも気がつかないうちに自然と薄れていきました。欲しいものが手に入らなくても、それならそれで全く構わないと思えるようになり、人の上に立ちたいとか、資産家になりたいというような欲への執着もなくなりました。正確に言うなら、執着している自分を客観視するもう一人の自分に軸足が移りつつある、という感じです。

私の実感としては、欲の正体が見えるようになると、特に意識しなくても自然に物事への執着は薄れていくようです。欲そのものは以前と何も変わらず存在していますが、その欲に振り回されたり、苦しめられたりすることはなくなるのです。

ところが、歴史上の誰かが、どこかの時点で「聖人になるためには、欲や執着を捨てなければならない」と解釈を履き違えてしまった。そしてこの考え方が定着してしまったのです。「悟れば自ずと物事に執着しなくなる」という因果関係を逆にして「執着を捨てれば悟りに至る」としてしまったわけです。

さらに、釈迦やキリストを神格化したり、悟りや聖人という概念それ自体を崇拝したりする中で、自分も聖人のようになりたいという欲に執着するようになったのです。これも本来の教えから遠ざかる原因になっています。

「欲や執着を捨てよ」という教義をもつ教団は、最初から人類を間違った方向へ導いていると言えます。なぜなら人は欲を捨てようと意識すればするほど、その本能的な指令はさらに激しくなるからです。
例えば現在、キリスト教の聖職者による性犯罪が世界各地で大問題となっています。
Googleで「聖職者 性犯罪」で検索してみてください。
問題が根深すぎて、報道も積極的には行われないため、知らないままの人も多いかもしれません。なぜこのような事態が起きるのかという道理を考えれば、当然の成り行きと言えます。

端的に言うと、聖職者たちは、本能的な欲を意識的に抑え込もうとした結果、その本能が暴走してしまったのです。もちろんその中にはただの性欲モンスターもいると思います。私の指摘は、これほど全世界的に聖職者が性犯罪を犯す問題の背景には、個々の人間の特性という他に、宗教の戒律や教義そのものにも構造的な問題がある、という事です。

人はそれぞれ生まれ持ったものが違うため、ひとつの思想や戒律を権力で強制的に押し付ければ、誰も気が付かないうちに、世の中に小さな歪みが蓄積されていきます。歪みに気が付いていさえすれば大きな問題には発展しません。そうではなく、社会全体が歪みを歪みとして認識できていない常識的価値観にこそ、本当の問題が潜んでいると言えます。多くの人が正しいと認識しているというだけの理由でそれが歪んではいないと信じ、自分もその認識を前提として生きる。これが原罪です。

現代の日本人がカルトの標的になりやすい要因

生きている限り、不安という感情は誰もが抱えるものです。人は「これさえ信じていれば間違いがない」という心の拠り所、柱を求めます。生物として必要があって備わっている、拠り所を求める本能が不安の正体です。

全ての物事を自分の頭で判断して行動することは、エネルギーを激しく消耗する行為です。そのため人は、信頼できる柱となる人物や行動規範を求め、それを信じてついていけば、エネルギーを無駄に消費せずに済むことを無意識で知っています。

このような拠り所となる柱を求める感情は、人が社会性生物として生き残っていく過程で獲得したエコシステムの一部です。何を柱と見なすべきかを自分自身で判断することも少なく、たいていは「多くの人がついていく」という理由で、それを柱と見なして、自分もその後についていきます。

寄りかかるべき柱がどこにも見つからない時、この本能的エコシステムは、個体に早急に柱を探させるために、意識に不安感を生じさせます。民族によって程度の差異はありますが、基本的にこのエコシステムは潜在意識の領域で個人の行動に強く影響を与えています。
そして、信者の獲得が目的化している現代のカルトは、まさにこの感情を利用しています。団体が一定規模に達すると、もはや教義そのものは重要ではなくなり、「多くの人が信じている」という事実自体が、新たな信者を引き寄せる力となります。

危険なカルトかどうかを、無意識は判断できません。
無意識は「人と同じ」という状況にあれば「柱が見つかった」と判断し、個体の意識から不安感を消し去り、今度は安心感をもたらします。
メタ認知能力の高い人であれば、これが危険なカルトだと自力で気付けますが、通常はまず気付けず、安心という感情にその身を委ねます。
ただ理性的判断よりも本能的欲求が勝ち、安心を求めてカルトに操られるまま信者になるのです。

こういう人に「あなたは洗脳されている」と根気強く説得を試みても、ほとんど効果はありません。なぜならその人は安心を求めているため、間違いを指摘する否定的な言葉よりも、本能から湧き起こる感情の方が圧倒的に優先されるからです。

カルトが世に蔓延るのは、世界の宗教団体そのものが歪みの産物だからです。これまで話してきたように、健全な宗教団体というものは構造的に存在し得ず、宗教が人々を救済するという話はただの幻想です。
宗教を樹木に例えるなら、危険なカルトはその樹木の枝の先に実る毒の果実です。

日本で戦前から続く洗脳教育

ここまでの話で「私は宗教を信じていないから大丈夫だ」と思った人。
本当に大丈夫でしょうか?
宗教に分類されるものだけがこの問題に当てはまるわけではありません。対象が神仏ではない場合もあるからです。

例えばプロイセン・モデル。
これは今からおよそ百年前、当時の日本政府によって導入された学校教育モデルです。日本が短期間で列強国に対抗する国力をつけるため、従順な国の歯車を育成することに特化しています。
わかりやすく言えば、上の命令にだけ従う精神的奴隷を短期間で量産するための洗脳教育です。主体性や創造性、メタ認知力は、奴隷としての洗脳教育が解けてしまう要因になるので、それらの才能は伸ばされません。
逆にどんなに理不尽な指示にも抗わず従う従順な学生だけが評価されます。

第二次大戦後、政府がすべてを一括管理していたこの体制は解体され、日本の社会は自由経済へと舵を切りました。しかし社会は変わっても、学校教育は相変わらずプロイセン・モデルの奴隷教育のままでした。
これは、プロイセン・モデルに洗脳された子供たちがそのまま大人になり、奴隷教育を奴隷教育として認識できなくなったことが大きな要因と思われます。
つまり奴隷教育を信仰している状態です。
動画で紹介した、旧約聖書に登場する預言者イザヤの「欺く者の欺きが欺く」という言葉を思い出してください。

当時の子供たちは、学校で言われたことさえしていれば良い成績を取れて、褒められていました。ところが卒業して自由経済社会に出た瞬間から、すべてを自分の頭で考えなければならなくなります。
このように、教育と社会との間に大きな障壁がある、いびつな構造が戦後の日本でした。若者の中には、学校が寄りかかる柱だった状態から、社会に放り出され、心が不安定になり、安心をどこかに求め始める人が多くいました。

多くのカルトは、学校教育と同じく、上の指示にさえ従っていればランクが上がって褒められる評価システムを採用しています。
学校で長らく馴染みがあったその評価システムに、日本の若者は安心感を覚えるのです。カルトはそんな人の心の隙に付け込みます。アレフ(旧オウム真理教)などが、まさにこのシステムを採用しています。IQや偏差値は「知性」とイコールではありません。
成績優秀なエリート学生がオウムの信者になる理由の一因がここにあります。この問題は、こうしている今もリアルタイムで継続中です。一度でもカルトと接触すると、さらに別の不安や恐怖を煽られ、ますます抗うことが難しくなります。

信教の自由というレトリック

一般的には無害とされる教団も、危険なカルトと無関係ではありません。
なぜなら、そのような「無害な教団」が存在することによって、危険なカルトが「信教の自由」という言葉を盾にできるからです。
無害な教団が、意図せず、カルトの防波堤を担っているという構造です。

「信教の自由を侵す」という主張は、教団がよく使うレトリックです。
冷静に考えれば、この主張がおかしい事がわかります。
そもそもイザヤやイエスや釈迦といった覚者たちは、教団を信仰せよとは言っていません。むしろ彼らは、教団が世に災いをもたらすことわりを説いています。

信仰とは基本的に一人で完結するものです。
全てとは言わないまでもほとんどの教団が心配しているのは、人々の信教の自由が侵されることではなく、人々の信教によって得ている教団の既得権益が侵されることです。
彼らが事あるごとに掲げる「信教の自由を侵す」という言葉の盾は、始祖の教えと矛盾しています。

「信」という字は「人が言う」と書きます。
自分が信じているすべての物事は、どこかの誰かが言った言葉の刷り込みから生じます。
神仏は信じるものではなく、感じるものです。感じる力を失い死人まかりし人になっているから、それがわからなくて、他者から刷り込まれたものを信仰してしまう。

これらの刷り込みや思い込みの衣を脱ぎ去ることを、神道では禊ぎと言います。禊ぎは身削ぎです。人生の過程で身に付けた思い込みを削ぐ事。
神社が、お宮や参道のように女性の体を模した形や名称になっているのは、母の胎内に戻り、新たに生まれ変わりなさい、という意味が込められています。
顕在意識はもちろん、潜在意識の領域も見つめ直し、身につけてきた思い込みの衣をすべて脱ぎ去って禊ぎを終えたとき、残るのは実感だけになるはずです。

例えば、太陽の暖かさをありがたいと感じたり、星や花などを見て美しいと感じること。そういった感覚だけが残るはずです。
その感覚の先にこそ人知を超えた何かがあります。

その何かの呼び方は、神でも仏でもサムシンググレートでも超意識でも、自分の好きなように呼べば良いと思います。重要なのは呼び名ではなく認識。人知を超えた何かに対する認識です。

神や仏という言葉を聞くと、反射的に、絵に描かれた人格神や仏像の姿が思い浮かぶ人が多いと思いますが、それもすべて後天的に身につけた思い込みに過ぎません。それらの思い込みを全て削ぎ落として最後に残るものだけが本物です。

カルトの被害者をこれ以上生みたくなければ、他者から聞いた宗教用語やスピリチュアル用語を借り物の知識のまま話すのはやめましょう。たとえそれが先祖代々伝わっている由緒ある伝承や書物であったとしても同じ事です。

禊ぎした上で、自分自身の内から出た言葉を話しましょう。
そこには言霊が宿ります。
借り物の言葉には言霊は宿らず、人から人へと伝わる間に枯れていきます。これを気枯れ(穢れ)と言います。穢れた言葉を人が使い続けている限り、それが必ず後世の禍事へと繋がります。これは私だけが言っている事ではなく、聖書にも、釈迦の教えにも、そして日本神話の中にもあります。探してみてください。私自身の日本神話の解釈についても今後同様にYouTubeなどで紹介していきます。

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