いちど目にするとわすれない:長谷川潔のメゾチントの作品について
(2024.3.12加筆あり)
はじめに
作品をはじめて見たのは新学期の4月の始業式後にくばられた図工のテキストの図版だろうか。こどものわたしの目に鮮烈な印象をのこした。その版画の作者は長谷川潔。いちど見るとわすれない。その作品のせかいにひきずりこまれるかのような妖しさをただよわせていた。
このところ身近なヒトの名前すらぱっとうかんでこないが、いまだに作品と名前をしっかりと記憶している。独自の世界を築き上げた芸術家のひとりにちがいない。
きょうはそんな話。
初見は…
おそらく小学校の高学年の頃だったろうか。図画工作でさまざまな技法についてひととおり実習をする。なかでも版画については木版画や凹版のドライポイントなど彫刻刀やニードルなどの刃物や専用の用具で版木やPET版に作品を掘っていく。
わかりやすい凸版の多い木版画にくらべて、ドライポイントはローラーでPET版につけたインクをほぼ拭きとる凹版。ニードルでひっかいてできたみぞにのみインクをいれて紙にうつしとる。どうしてみぞにある黒インクがプレスにかけると紙にうつしとれるのかふしぎで作品は目にするまでどうなるのかはっきりしない点とともに新鮮でおどろきだった。
テキストにあったのは
そのころだったろうか。テキストにはさまざまな作家の作品が紹介されている。なかでもこころをとらえて離さなかったのが長谷川潔の版画作品。おそらく静物を克明に描いたものだった。
なんて静かなんだろうとこどものころのわたしは思った。絵にしずけさってあるんだとこの作品をつうじてはじめて気づいた。でも描いているものひとつひとつはその静けさとは一見すると無関係。
きっちりしたバランスでもって配置され、洗練された形状をとらえた対象物が画面を占めている。占めてはいるが接近しているわけではなく、すこしだけひいて、空間とともにある。むしろその対象物をふくめた空間そのものの表現に感じる。どこからそんな静謐さがあらわれるのだろう。
繊細さをあわせて
彼のきわめた技法のメゾチントはあくまでも特殊なわざ。さきほどあげた凹版のドライポイントから派生した特殊技法。
彼はいったん廃れたこの技法を再度復活させ、質の高い作品へと築き上げた功績をもつ。ふつうは黒白のはっきりした版画の世界に中間調や階調をとりいれることができる手法。そこに彼はおもしろさを見出したのかもしれない。
技法のみならず独自の世界を同時に築き上げた点でもまれにみる人物。この一連の作品を展示できるスペースはそれなりに洗練されたものがもとめられそう。時の刻みをとめたかのような画面はそこをより雰囲気をたかめる場所へといざないそう。
普遍性とか
一連の作品の印象はいまも変わらない。みつめていると過去のじぶんのこころもちがよみがえる。思い出の曲のよう。ちょうど彼の作品が過去と現在を行き来できる窓のやくわりを担ってくれている。
視点をかえよう。完成した時点での「時」や「生命」などをそこへ封印しているかのよう。しかもそれをむりやりでなくやんわりと着地させ、しずけさのなかに封をしたように。
対象物をみつめて観察し、洗い清めてそのエッセンスを表出させるとこのようになりましたと画面からささやくように聞こえてきそう。
おわりに
やはり独特だなあと感じるし、ほかの作家に類例をなかなかみつけられない。100年ほどまえに活動しはじめて得た作品にもかかわらず、もちろん古さなど感じない。むしろ普遍的で清新ささえ感じる。
やっぱり時代を超越していると思う。
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