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【批評の座標 第13回】舞台からは降りられない――福田恆存の再上演(渡辺健一郎)

英文学を中心に文筆活動を行いながら、政治的には保守派の立場を取った評論家・福田恆存。しかし、その裏面で、生涯にわたって演劇実践にも関わり続けたことはあまり知られていません。自身も俳優であり、単著『自由が上演される』(講談社)を上梓した批評家・渡辺健一郎が、福田思想のキーワード「醒めて踊れ」の意味とその現代性を問います。

批評の座標
――批評の地勢図を引き直す

舞台からは降りられない

――福田恆存の再上演

渡辺健一郎

演戯としての生

 演劇批評なるものを試みるとき、客席のどこに座れば良いか、私は毎度困惑してしまう。対象を客観的に観察、記述すべきだとするならば、なるべく後ろの席に座るのがベターであろう。そこでは舞台上での出来事、他の観客たちの反応まで含めて一望することができる。しかし無論、俳優の表情の機微や一挙手一投足を把捉するためには前の方に陣取った方が良い。ではどうするか。より穏当と思われるのは中央の座席に座るということだが、これでも不十分である。特権化された中心を適当な位置と強弁するのは具合が悪い。
 これは劇場でのみ生じる問題ではない。批評家は論ずべき対象とどのように距離をとるのか。これこそまさに、批評という営みが主題にしてきた事柄である。本企画の第一回、赤井浩太による小林秀雄論も「ゼロ距離の批評」と題されていた。赤井によれば、小林は舞台に近づくどころか、楽屋にまで押しかけるのであった。
 本稿で扱う福田恆存(1912-1994) はいっぽうで、あくまでも舞台上にこだわった。演者の素顔に興味をもたない。というより、人間はつねに・・・何らかの仕方で演戯をしているのであり、素顔などという観念の方に欺瞞があると福田は言うのである。ただしそれは、人間は常に仮面をまとい嘘や虚偽に満ちた仕方で社会生活を送っている、ということではない。それでは仮面の裏に本当の素顔の存在を肯定することになってしまう。 
 実際に仮面をかぶってみるとすぐに分かることだが、仮面は発された自らの声を複雑に反響させる。そのとき自己の「本音」はもはや定かではなくなるが、聞こえてくる声から自己なるものが翻って理解されるようになる。
 例えば誰かが亡くなった際の哀悼が本気だったとしても、それを人前で表明するとき、何らかのしらじらしさを覚えはしまいか。しかしその振る舞いを虚偽のものだと唾棄することはできない。しらじらしさをたずさえて、なお弔意の表明を遂行することに真剣であらねばならないだろう。自らも違和感を覚えてしまうような言葉の裏側で、哀悼がようやく育まれるとすらいえるのだ。
 なお、自分の声を録音して聞いたことがある人なら分かるだろうが、それを初めて聞いたとき、誰もが違和感を覚えるはずである。ふだん自分の「本音」だと思って聞いていた声は、骨伝導などによってきわめて特殊に響いている声でしかない。実際に世界の中で響いている音色は、自分には決して把握することができない。
 ユングの仮面=人格論では、仮面は他者との関係のなかで生じる、とされている[1]。福田はユングを経由していないが、ほとんど同様に考えていると言って良い。自分に慣れ親しんだ仮面を本当の素顔だと取り違えてしまうならば、そこで「あるがままの自己とは、つまりは世間、あるいは世間の承認した規範によつて限定された自己といふことにほかならず、それを信じるといふことは、とりもなほさず世間を信じるといふことでしかない」[2]。
 人間はつねに仮面をつけて舞台に立っているのであり、それを自覚したうえで、舞台上での演技を洗練させねばならない。彼は終生一貫して、このような俳優=人間論を前提に思索と実践を続けたのであった。
 さて実際の俳優のことを考えてみると、それは定められた運命を何度も辿る存在であることが分かる。フランス語では演劇の稽古のことをrépétition(反復)、上演のことをreprésentation(再現前化)と表現するが、俳優は稽古場で、舞台上で、同じ物語を何度も繰り返し生きなおさねばならない。自らの演ずる役が、悲劇に見舞われるのが納得いかないからといって、勝手に筋を書き換えるわけにはいかない。そして運命をすべて分かったうえで、終幕に向けて進んでいかねばならない。なんと不自由な存在であろうか。
 しかし福田はそれを悲劇とは考えない。「私たちが真に求めてゐるものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起つているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしてゐるという実感だ」[3]。俳優は、最後の台詞を言い終え幕が下りるとき、自らの運命をまっとうしたということに無類の喜びを得る。実生活にあっても、苦心しながら何か大きな仕事をやり終えたときなどに生の実感は得られるではないか(無論、役割がまるで不条理に強制されてしまっている場合はその限りではないだろうが)。いずれにしても福田はこのように、人間を演じる存在と考えたのであった。
 さて俳優は、自らの運命を知っているにも拘わらず、知らないかのように演じ通さねばならない。生身の肉体を通じて、フィクションを演じるという現実を生きなければならない。役に没入しながらも、自分が演じているにすぎないのだと、どこかで醒めていなければならない。福田はこのような俳優の在り方をアイロニーという語で形容している。
 日常語としてのアイロニーは、嘘、不誠実、詐術、皮肉、冷笑、といった負の意志のイメージとともに用いられることが多いだろう。しかし福田がアイロニーと言うときには、あらゆる事物、事象が究極的には決して一つの様態にとどまらない、というまさにそのことが意図されている。例えば「劇中の登場人物であると同時にその創造者であり、客体であると同時に主体であって、それ自身すでにアイロニカルな存在なのである」[4]とされる(なお、「良い腕時計してはりますねぇ」などといった皮肉も、表面的な意味とその背後の「真意」との分裂が生じているという意味で、アイロニーの変奏であると言える)。
 このことをよりよく理解するために、福田の言語観を経由しないわけにはいかない。言葉もまた、アイロニーによって説明されている。「言葉そのものがアイロニカルな存在なのだ。それは事物を指し示すものであると同時に、事物そのものだからである」[5]。では、言葉が事物そのものだというのはどういうことなのか。



[1] C. G. ユング『自我と無意識』、松代洋一、渡辺学訳、レグルス文庫、1995。
[2] 「自己劇化と告白」『福田恆存評論集 第二巻』麗澤大学出版会、2008、243-244頁。以降、引用に際しては原則として旧字体を新字体に改めている。もはや「旧字」という言葉に違和感を覚える者は少ないだろうが、福田は「私の國語教室」(『福田恆存評論集 第六巻』麗澤大学出版会、2009)にて、戦後すぐに内閣主導で行われた漢字簡略化(かなの表音化)の改革に強烈に反発した。今回は掲載媒体の都合上、「旧字」のすべてが正しく表示されないことを危惧して、人名、書名を除き一律で新字体に改めたが、福田にとっては極めて大きな問題であったことを記しておく。
[3] 「人間・この劇的なるもの」『福田恆存評論集 第四巻』麗澤大学出版会、2009、19頁。
[4] 「批評家の手帖」『福田恆存評論集 第五巻』麗澤大学出版会、2008、200頁。
[5] 同前、276頁。

本連載は現在書籍化を企画しており、今年11月に刊行予定です。
ぜひ続きは書籍でお楽しみください。


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執筆者プロフィール

渡辺健一郎(わたなべ・けんいちろう) 俳優、批評家。1987年生、横浜市出身。ロームシアター京都リサーチプログラム「子どもと舞台芸術」2019-2020年度リサーチャー。演劇教育活動の実践と、哲学的思索とを往還した文章「演劇教育の時代」で第65回群像新人評論賞受賞。著書に『自由が上演される』(講談社、2022)。2023年度より追手門学院大学非常勤講師。


次回は11月前半更新予定です。前田龍之祐さんが山野浩一を論じます。

*バナーデザイン 太田陽博(GACCOH)

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