【批評の座標 第19回】「戦場」から「遊び場」へ――西田幾多郎と三木清の関係性を手がかりに「批評」の論争的性格を問い直す(岡田基生)
「戦場」から「遊び場」へ
――西田幾多郎と三木清の関係性を手がかりに
「批評」の論争的性格を問い直す
岡田基生
1. 「論争」が「戦争」に変わらないために
「批評」という営みが、批評の対象(言論、作品、活動など)の問題点を指摘する、という側面を含んでいる以上、それは論争的性格を離れることができない。この性格をどう捉えるのか。それが問題である。問題点を指摘することは、直ちに対象のすべてを否定することではない。しかし、しばしば論争という構えを取ると、問題点を指摘する以上のところにまで足を踏み入れてしまうことがある。そうなると、相手を叩き潰すこと、その価値を全面的に否定することにまで進んでしまうことも少なくない。「論争」は「戦争」になってしまうのである。このように批評の論争的性格を問い直すのは、国と国の間であれ、人と人の間であれ、分断を感じることが少なくないからである[1]。
どうすれば、批評が生み出す「論争」が「戦争」になることを避けることができるか。私は、自らの思想的な参照軸である西田幾多郎(1870-1945)と三木清(1897-1945)に立ち返りながら探究している。当初、私は大学の哲学科で西田を研究していたが、大学院の博士前期課程で、その弟子の三木に研究対象を変更した。それは、理論の領域で根本的な立場を追求する西田の哲学に対する姿勢に限界を感じ、理論と実践の往復を重視し、批評家として活動する三木の姿勢に可能性を感じたからである。三木は西田とは大きく異なる哲学に対するスタンスを取ったが、西田と継続的に向き合うことを通して、独自の発展を遂げることができた。
私は、西田と三木の関係性の中に、「論争」が「戦争」になることを避ける手がかりがあるのではないかと考えている。
2. 哲学に対する西田幾多郎の姿勢
西田と三木は、哲学についてどのような点で対立していたのか。まずは、西田の哲学に対する姿勢を理解する必要がある。
小林秀雄が「学者と官僚」(1939)の中で、西田の文章を「日本語では書かれて居らず、勿論外国語でも書かれてはゐないといふ奇怪なシステム」と評したことは広く知られている[2]。このように評された文章の特徴は、哲学に対する西田の姿勢に由来している。ようやく自らの「根本的思想」を明らかにしたと感じた時点で書かれた『哲学論文集第三』(1939)の序では、西田は下記のように自らの哲学の目的を語っている。
西田の哲学の目的は、根本的なリアリティを徹底的に明らかにすることである。彼は、欧米の哲学や宗教の考え方を理解するとともに、禅の修行を行うなど、東アジアに継承されてきた精神的伝統を深く体得することを目指しながら、自らの思想を形成していった。それらの思想の対立を、自らの内に引き受けながら、それらの思想が、私たちが生きている現実のどういう面を捉えたものなのかを、整合的に位置づけることができるような立場を見出すことが、西田の課題であった。そのような立場に至るには、さまざまな立場をコラージュ的に折衷することではなく、無批判に前提されているものを乗り越えていく必要がある。
[1] 争いは、利害の対立と思想の対立のどちらか、あるいはその両方から生まれる。例えば、同じマーケットで利益追求を目指している企業同士が争うという場合、思想は同じだが、利害が対立していると言える。それに対して、現時点で主流となっている価値観を肯定する人と、それを問題視し新たな価値観を提示する人の間には、思想の対立がある。もちろん利害の対立も重要な論点だが、論争が関わるのは思想の対立であるため、今回はその点に焦点を当てる。
[2] 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、2001年、560頁。
[3] 『西田幾多郎全集』第9巻、岩波書店、1965年、3頁。
本連載は現在書籍化を企画しており、今年11月に刊行予定です。
ぜひ続きは書籍でお楽しみください。
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執筆者プロフィール
岡田基生(おかだ・もとき)1992年生まれ、神奈川県出身。修士(哲学)。上智大学文学部哲学科卒、同大学院哲学研究科博士前期課程修了。IT企業を経て、カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社に入社。代官山 蔦屋書店で人文コンシェルジュとして活動。連載に『「ほんとうのさいわい」につながる仕事――宮沢賢治に学ぶワークスタイル」』(図書出版ヘウレーカ)、『READ FOR WORK & STYLE』(FINDERS)。寄稿に「イーハトーヴ――未完のプロジェクト」『アンソロジスト vol.5』(田畑書店)など。
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