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【批評の座標 第18回】名をめぐる問い――柳田國男『石神問答』において(石橋直樹)

民俗学の祖、柳田國男。吉本隆明や柄谷行人をはじめ、歴代の批評家によって論じられてきた評価の分かれる人物でもあります。知識人との往復書簡集『石神問答』を読み解き、柳田の思想の核心「名への欲望」に迫るのは、「ザシキワラシ考」でデビュー、「〈残存〉の彼方へ」によって第29回三田文學新人賞を受賞した石橋直樹です。

批評の座標
――批評の地勢図を引き直す

名をめぐる問い

――柳田國男『石神問答』において

石橋直樹

1、はじめに

 かつての批評家たちの数ある文章のうちに、時折、あちらへこちらへと引き摺り出されるようにして、その特異な名は据えられてある。その名に批評家はあるとき出会い、あるときには決別し、またあるときにはその名前を読み替えていく。その不意の一撃が批評という営為のなかに絶えず現れるならば、その名の主は、批評という横断としての営為が位置する三重点そのものを指し示しているといってよい。明治という近代日本の到来とともに訪れたその巨人の伝説を、右往左往するようにして、わたしたちはあの名について差し向けられているのである。そしてわたしもまた、このようにふらふらと柳田國男(1875-1962)という名の渦の中心へと近づきつつある。
 柳田國男について口を開くということは、今やほとんど不可避的に論争に身を委ねるということになりえて、論者の数だけ存在するといってよい柳田像――肯定[1]、批判[2]、読み直し――がひしめきあっているなかに、われわれはおそらく何かを賭けなければならないだろう。例えば、著名な花田清輝と吉本隆明による柳田をめぐる論争においては第三世界革命的な可能性の中心として論じられ、政治の季節において繰り返し、ほとんど肯定的に論じられてきた。しかし九〇年代には、ポスト・コロニアリズムの影響を真っ向に受けて柳田批判が子安宣邦らによっておこなわれ、国民国家論及び帝国主義批判に並行するようにして柳田民俗学は糾弾されていくこととなる。しかし現在においては、むしろ東日本大震災の衝撃のなかに柄谷行人の遊動論を中心として柳田國男は復権しつつある。およそここでは紹介しきれないほどの「柳田國男論」が文壇に何度も現れ、何度も書き換えられてきたのである[3]。
 しかしそうした「象徴論争」のなかに自らの位置を見出すのではなく、柳田を問う者であり問われる者として、批評的謎解きの行為のただなかにあるものとして読み直すことは可能であろう。それは、「名」を集め、「名」を合わせ、「名」を解く者であったという柳田の、「名」の謎を解いていく作業にあたる。言文一致のまさにその裏側において、柳田は音として残っていた「名」を集め、異様な形でそれを書き残している[4]。そこで発見されたものは確かに「風景」[5]にも増してもっぱら言語的な「名」であったとしたならば、柳田論はどこまで書き換えることができるだろうか。日本思想の系譜のなかに柳田國男を再附置していく研究も新たに進められている昨今の状況[6]において、膨大な研究的裏付けのなかで柳田像はより現実的なものとして複合的になりつつある。あのあまりに近く、あまりに目眩のするような距離の上を、自由に飛び回ることさえ可能なあの批評の名のもとに、わたしもまた柳田國男を論じてみたい。


[1] 代表的なものには、花田清輝「柳田國男について」『近代の超克』講談社文芸文庫、一九五九年や、吉本隆明「共同幻想論」ほか『柳田國男論集成』JICC出版局、一九九〇年。
[2] 代表的なものに、ポスト・コロニアリズムの影響を真っ向に受けてなされた九〇年代の柳田批判が存在する。これには、川村湊、村井紀などによって帝国主義に関与したことを取り沙汰されてなされた批判と、子安宜邦によって行われた国民国家論的に批判するものの二つの潮流が存在する。しかしこれらは赤坂憲雄・柄谷行人らによって反批判がなされている(赤坂憲雄・柄谷行人「柳田國男の現代性」『atプラス18』太田出版、二〇一三年ほか)。
[3] 絓秀実『アナキスト民俗学』筑摩選書、二〇一七年において柳田論争は「総括」されるが、柳田が言語という問題に注力しているのに対し(絓氏は)日本のモノ性を持ち出して柳田批判を支持している。
[4] 「いわゆる言文一致はまだ途上にあって、声の語りにふさわしい文体も生まれてはいなかった。柳田は『聞く』ことよりも、じつは『書く』ことに試行錯誤を重ねなくてはならなかったのだ。その苦心の痕は草稿類のいたるところに見いだされる」(赤坂憲雄「はじめに」『原本遠野物語』岩波書店、二〇二二年、Ⅲ頁)
[5] 柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社文芸文庫、一九八八年などにおける柄谷の一連の議論では、風景と主体が分離・構成されていくという均質的言語の発見によってなされた近代論に焦点が当てられ、柳田はそれを成立させる下部構造の発見者として評価される。この論点と同一平面上に存在している問題は、単に柳田が近代的言語観を貫通してしまう言語観を提示していることにある。すなわち、歴史から切り離されて常に特権的であり続けるような「名」を柳田が据えることによって、言語の交換は困難なものとして書き換えられているといってよい。
[6] 代表的なものに、渡勇輝「柳田国男の大正期神道論と神道談話会」『佛教大学大学院紀要文学研究科篇』佛教大学、四九号、二〇二一年、八一―九八頁、および同著者「柳田國男と『平田派』の系譜」『平田篤胤―狂信から共振へ』法蔵館、二〇二三年、二三七―二五九頁。例えば前者における神道私見論争の読み直しにおいて、次のように述べられるのは重要だろう。「柳田の議論は、民間宗教者への視点を閉ざして『常民』へ転向していったのではなく、はじめから『国民』の信仰を明らかにするために、同時代の『国民道徳』論と対峙するべく議論が展開されていたのである。しかもそれは、同時代の学者たちが理想とする近代的な『国民』像とは異なる、別の『国民』像を、近代以前の民間信仰から照射しようとした点で、近代社会そのものを相対化する射程をもっていた」(渡、2021:93)


本連載は現在書籍化を企画しており、今年11月に刊行予定です。
ぜひ続きは書籍でお楽しみください。

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執筆者プロフィール

石橋直樹(いしばし・なおき)2001年神奈川県生。民俗学・批評・現代詩などについて。論考「ザシキワラシ考」で2020年度佐々木喜善賞奨励賞を受賞、および論考「〈残存〉の彼方へ―折口信夫の『あたゐずむ』から―」で第29回三田文學新人賞評論部門を受賞。その他、論考「『二重写し』と創造への問い―『君たちはどう生きるか』の引用の思考」(『現代思想』10月臨時増刊号所収)、論考「看取され逃れ去る『神代』―平田篤胤の世界記述を読む」(『現代思想』12月臨時増刊号所収)など。X(旧Twitter):@1484_naoki


*バナーデザイン 太田陽博(GACCOH)

*編集部:文中の誤記を修正いたしました。お詫びして訂正いたします(1月15日)
・第1章 子安宣武→子安宣邦
・第2章 「ほとんど徹底的した独自性は」→「ほとんど徹底した独自性は」
・注1 講談社学芸文庫→講談社文芸文庫
・注8 「…その意も事も言も相稱で」→「…言もままに、相稱て」




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