回復しているからこそ気をつけたい「ハッピーハラスメント」
・ハッピーハラスメントというのがあるらしい
「ハッピー・ハラスメントって知ってる?」
自分が幸せだと、ついつい悩んでいる人へのアドバイスが上から目線になって、相手を傷付けるような意味なのだと旧友のAちゃんが先日、教えてくれました。
場所はタリーズ。
ジンジャーエールを飲んでいた私は、知らなかった、といった表情で顔を上げました。
まだ喉の奥でシャワシャワと泡が弾けている。
「本を読んでたりしてても、ハラスメントされてるなって思うことあるんだよね。
気分が良い時は流せるけど、弱ってる時は苦しくなる。
そう思うと、心身に悩みのない人は
苦んでいる人たちに日常的にしてしまってるんだろうなって思った。
ハッピー・ハラスメント」
・ 言葉を交わさないハッピーハラスメントもあるのだろうか
15年近く前のこと。
大学時代の友人Bちゃんが妊娠したとき、こんな話をしてくれました。
きっと、友人は妊娠して嬉しかったのでしょう。
その嬉しさを仕事中は出さないようにしていたつもりでも、いつもよりちょっとだけ、表情が緩んでいたのかもしれない。
ちょっとだけ声のトーンが高かったのかもしれない。
お腹を労わるような仕草をしていたのかもしれない。
そういうちょっとしたいつもと違う雰囲気が、きっとその先輩には耐えられなかったのだろうなと思いました。
先輩がどういう事情で会話をしなくなったのかはわからない。
けれど、想像はできる。
いや、想像を遥かに超える事情だったのかも。
彼女は、どういう気持ちだったのだろう。
年月が経った今も、私はたまに想いをはせることがあります。
もちろん、どんな事情であっても、心の中で泣いていたとしても、笑顔で「おめでとう」と言えるのがスマートなのだとは思います。
Bちゃんはただ子どもを授かっただけで何も悪いことはしていない。
妊娠のアドバイスもしていない。
だから、いわゆるハッピー・ハラスメントはしていない。
けれど、先輩にとってはBちゃんが妊娠したという事実だけでも、十分なハラスメントだったのかもしれない。
Bちゃんが上で自分が下と、感じてしまったのかもしれない。
・幸せそうな人から、毒を感じていた時期
どうしても受け入れられないことってあるよなあ。
笑顔になりたくてもできないこともあるよなあ。
自分に置き換えると、そう思うのです。
2007年からジストニアを発症した時、そしてどんどん悪化していった時、私は世の中の人の笑顔をひどく憎んだ時期がありました。
笑顔からこぼれる歯は、上から蛍光塗料でも塗っているのかと思うくらい眩しく光って見えた。
目を伏せるしかなかった。
笑うなと思った。
どの笑顔からも毒を感じた。
悪意を感じた。
・かつての私を忘れて、ハッピーハラスメントをしないように
タリーズで、Aちゃんから「ハッピー・ハラスメント」の話を聞いた時ハッとしました。
かつて、人々の笑顔に悪意を感じていた頃の自分を、今の私はすっかり忘れていたから。
私は今、相当元気になっています。
2009年から手放せなくなっていた杖からも、離れられている。
杖は念の為、バッグの中にしまって
持ち歩いてはいるけれど、手放してから今のところ必要性を感じずに行動できています。
もうバスや電車の中で、席を譲られることもない。
家族や友人から労られることも減っている。
少しずつ、少しずつ、ジストニアであった世界から離れている感覚があります。
それは、私をずっと見守ってくれていた家族や友人にとっては、とても嬉しいこと。
どんどん、どんどんこれまでの世界から離れていけばいくほど、周囲は喜んでくれるはず。
けれど、文章を書く上でそれはとても危険だと思いました。
ジストニアで苦しんでいた頃の感覚が、薄れている。
その中で文字をつづれば、やはり今苦しんでいる人たちにとっては、毒となることもあると思います。
常に常に、かつての世界を味わっておく必要はないのかもしれない。
けれど文章を書く間は、かつての体感覚にどっぷりと浸かって、当時どう思っていたか? どうなれば良いと思っていたか? 何が苦しかったのか?
そういうことを思い出しながら書きたいと思いました。
そうでなければ、文章を書く意味がない。
自分が目指す文章を体で感じながら、書いていきたいと思っています。