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「鳥羽伏見の戦い」は明治維新への産みの苦しみへのはじまり。
「京都 伏見は12年間首都だったのではないか」
と先日書きましたが
大きな歴史の舞台になった伏見の出来事として、
もう一つ「鳥羽伏見の戦い」があります。
この戦いは
明治維新への「産みの苦しみ」へとつながるきっかけとして
起こるべくして起こった戦いだと思っています。
なぜ伏見で戦いが起こったのか?
一説には、
新撰組を伏見に駐屯させたからだと言われています。
1868年1月3日
その後、全国を駆け巡った「戊辰戦争の初戦」となった
「鳥羽伏見の戦い」がはじまりました。
きっかけは、
鳥羽街道での小競り合いの末の
小枝橋での一発の銃声でした。
この銃声を機に、
御香宮神社から伏見奉行所へ
砲弾が降り注ぐことになりました。
この一発が、鳥羽伏見の戦いのはじまりであり、
16ヶ月にわたる戊辰戦争のはじまりだったのです。
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御香宮神社は、
鳥羽伏見の戦いにおける
新政府軍(薩摩藩)の本営となりました。
鳥羽での一発の銃声をきっかけとして
御香宮から、300mほど離れた
旧幕府軍(新撰組、会津藩)の本営である
伏見奉行所に向かって砲撃が行われました。
新政府軍は約5000人、
旧幕府軍は約15000人でした。
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御香宮神社の高台からの砲弾は非常に有効であったようで
砲弾は奉行所を炎上させ撤退を余儀なくさせたと言われています。
新撰組二番隊長の永倉新八は、
重い甲冑を脱ぎ「決死隊」と称し
御香宮神社の薩摩藩本営に切り込みをかけますが
圧倒的な火力の前に戦局は変えられなかったようです。
結局翌1月4日には、
旧幕府軍は淀まで撤退を余儀なくさせられました。
土方歳三は、
鳥羽伏見の戦いで薩長の最新兵器を目にし
「もはや刀や槍の時代は終わった」と言い、
その後江戸に戻った土方は
洋式銃をを大量に購入、
自ら洋式歩兵の指揮官となるべく
まげを切り落とし、
フランス式軍服に身をまとうことになります。
ちなみに、鳥羽伏見の戦いには
墨染め事件で負傷した近藤勇と、
療養中の沖田総司は参加していません。
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魚三楼は、
当時は薩摩藩の炊き出しをしていた様です。
新政府軍が新式銃や大砲を中心に戦ったのに対し、
旧幕府軍は、刀や槍が中心でした。
魚三楼の弾痕は、方位から考えると恐らく
北の新政府軍が発射した新式銃のものでしょう。
あまりの火力に新撰組は、
夜になるのを待って薩摩藩の陣に斬り込んでいった
と言われています。
御香宮神社には
「明治維新 伏見の戦跡」と書かれた
内閣総理大臣の佐藤栄作の書いた石碑があります。
「鳥羽伏見の戦に我が国史上否世界史上まことに重大な意義を持つ」と
佐藤栄作首相も称えた戦いでした。
明治維新のトリガーとなった戦い。
鳥羽伏見の戦い。
近代的な武器と西洋の戦術 VS 従来の武士道
戦闘技術が勝敗を分けたと言われています。
圧倒的な兵力を持っていたにもかかわらず
旧幕府軍は大将である徳川慶喜が先頭に立たず
戦況が不利になったと言われています。
また
「錦の御旗」が決定打となりました。
この「錦の御旗」は岩倉具視による策謀のひとつでした。
実物の錦の御旗は数百年間使用されていないため、
勝手に制作しても、誰も本物と偽物の区別は付きません。
※神話の神武天皇と、鎌倉幕府を倒そうとして後醍醐天皇が掲げて以来ですから。
そこで岩倉具視は大久保利通らと共謀し、
玉松操に命じて極秘裏に旗を制作。
激戦の最中に掲げることで
敵の戦意を喪失させることに成功したのでした。
錦の御旗の効果は絶大で
大将 徳川慶喜が、
「朝敵の汚名をかぶりたくない」
と大阪城から江戸へと逃亡したとも
言われています。
その後、戊辰戦争に発展し
戦いは全国を駆け巡りました。
毛利家と島津家が、徳川家を倒して
明治維新へとつながります。
江戸時代のはじめと
江戸時代の終わり。
この両方に
京都・伏見は大きく関係していることが
わかりました。
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なぜ大中かって?小がない。「しょう」がない。
うまくてうまくて、しょうがないからです(笑)
<余談>
江戸時代という時代のはじまりと終わりに
「朱子学」が大きく関係していると考えます。
徳川家康が、
徳川幕府を磐石にしようと取り入れた朱子学により
江戸幕府は滅ぼされることになったのではないか。
中国、朱熹の新しい体系の儒教を
日本では朱子学と呼ぶようになった。
この朱子学は、「安定」悪く言うと「停滞」をもたらす。
司馬遼太郎さんはこのことを、「アジア的停滞」と評されました。
朱子学の影響は長い年月をかけ、軍事を怠らせ、財政改革を失敗させ、
貿易をせず、幕府を時代遅れにしたのです。
そして、皮肉なことに、
この朱子学の台頭によって
天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、
のちの倒幕運動と明治維新へつながっていったのです。
家康が蒔いた種を、慶喜が刈り取らされたわけですね。
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土方は、この時 洋式軍備の必要性を痛感したといわれています。
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