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京都・伏見は12年間首都だった説。なんなら長岡京よりも長いぜ。
私にゆかりのある土地 京都・伏見。
この「伏見が、むかし首都だったのではないか」という話を
その昔「ブラタモリ」で聞いたことがありました。
その説を元に
伏見の町をぶらりと
ブラジェッツしてまいりました。
まず、訪れたのが
御香宮神社。
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豊国社と東照宮が 1つの神社の中になる珍しい神社です。
こちら御香宮神社の門は
かつての伏見城の大手門です。(本物だそうです)
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伏見城の追手門が移設されました
そして、この神社の前の通りが
「大手筋」と呼ばれています。
伏見城の大手門につながっている道だから
「大手筋」だったんですね。
では、
その大手筋を進むと何があるか
と言うと
「明治天皇の陵」です。
いわゆる、桃山御陵です。
この明治天皇の陵は、
かつての伏見城跡に
建てられています。
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現在、明治天皇の陵となっています。
桃山御陵です。
この近くに掛けられた橋を
観月橋(=豊後橋)と呼ぶくらいの
景勝地であった上に
巨椋池を眼下に望む
絶景であったことでしょう。
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実は、「伏見城」は
2つあったと言われています。
この明治天皇陵の場所にあったのが
「木幡山伏見城」で、
その少し前に
4年間だけ存在した幻の伏見城
「指月伏見城」があります。
今は、石垣を残すのみとなっていますが、
マンションにその名を見ることが出来ました。
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日本初の銀座が、伏見に作られました。
銀座とは、銀貨の鋳造する場所であり
造幣局の前身でもあります。
このことは首都機能を備えていた、
明確な証拠といえます。
全国の大名屋敷も近くに建てられ
「伏見幕府」と言っても
過言ではないくらいだったそうです。
1601年に京都・伏見に銀座が置かれました。
その後、1612年に江戸に銀座が置かれましたた。
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1595年の聚楽第破却から
1607年の徳川家康が駿府に移り住むまでの12年間。
戦国の乱世から、江戸の安泰するまでの過渡期に
伏見は首都機能を持っていたのではないかと言われています。
ちなみに、
徳川家康も2代目秀忠も3代目家光も
伏見で将軍宣下を受けています。
江戸幕府を支えた尾張、紀伊、水戸の徳川御三家の初代は、
3人とも、家康の子で伏見生まれです。
下記に
その前後の伏見にスポットを当てた説明をします。
時は、安土桃山時代。
大坂には「大坂城」、京都には「聚楽第」がありました。
天下人、豊臣秀吉は、甥の秀次に関白を譲り
秀吉は「太閤」と称すようになりました。
1592年伏見城を築城開始。
建設当時は、秀吉の私的な居城という位置づけでした。
翌年1593年に実子、秀頼が誕生したことに伴い
隠居城から本格的な城へと改築され、
伏見も都市開発が進むことになります。
1595年秀次をを自害に追いやり、聚楽第が破却さられました。
そうすることで、伏見城に政治機能が移りました。
しかし、
1596年慶長伏見地震で伏見城(指月伏見城)は倒壊。
再建は木幡山へ異動して伏見城(木幡山伏見城)が築城されます。
1597年に秀吉が入城し、翌年1598年に秀吉が死亡。
その後、
伏見城の戦い(関ヶ原の戦いの前哨戦)が起き、一度落城消失する。
関ヶ原の戦いで徳川家康が政権を奪取し1601年伏見城の再建と二条城の築城が開始されます。
1603年伏見で家康が征夷大将軍に任命され江戸幕府が開かれました。
しかし、世の中はまだ戦国の雰囲気が漂っており
西の国へにらみをきかせるため、
家康も伏見にいることが多かったようです。
そして、
将軍職を息子秀忠に譲り家康が駿府に移ったのが1607年でした。
ここまで、京都・伏見が首都機能を持っていたと考えられています。
江戸時代初期には、
伏見は特に重要な役割を果たしていたようです。
1614年からの大阪冬の陣と大阪夏の陣において
亡き豊臣秀吉の豊臣家も滅亡させて完全に天下統一を果たし
1615年に徳川家の天下を盤石にするために発令されたのが
「一国一城令」です。
京都に、二条城と伏見城を残す必要がなくなり
1619年伏見城の廃城を決定しました。
1623年の徳川家光の将軍宣下を最後に
1624年に伏見城は廃城された。
この時の大手門が、御香宮に移設された。
よく「安土・桃山時代」と
時代区分で言われますが、
「桃山」は、
伏見城の廃城後、城址の山一帯に桃の木が植えられ、
桃の花見の名所となったことにちなむそうです。
となると、
「桃山」という地名は
秀吉も家康も知らなかったことになります。
であれば、「安土・伏見時代」でも
良かったのではないかと、悔やまれます。
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