『射精責任』と非対称性から読み解く映画『母性』
人間は自らの行いを正当化したり、歪んで記憶していたりするものだ。
「あの行いには愛情があった。愛を伝えるためだった」と主張すれば、受け取った方からどんな見え方をし、実際はどんなことが行われていたとしても、「愛情」に集約されて許されてしまうのだろうか。
DVの文脈で語られれば、許されることではない、と感じる人が大多数かもしれない。
しかしこれが親子間の話となれば、子は親に感謝し、親の愛を受け入れるべきだと言われることの方が多いのである。
『母性』の底流に流れる非対称性
ようやく、ようやく。『母性』を観る勇気が出た。
公開された時から気になってはいたものの、精神的ダメージを負う予感しかしておらず、なかなか視聴に踏み出せなかった一作だ。
奇しくも僕が『母性』を観た時、ガブリエル・ブレア著『射精責任』(太田出版)も読んでおり、この映画から見えてくる日本の母性神話に気づきながら視聴できたと思う。非常にタイミングの良いことだった。
『射精責任』の助けを借りて、新たな視点を得られた僕の目には、この『母性』という映画で描かれた出来事が、決して母と娘だけの問題ではないことがよく見えるようになっていた。
父親の希薄さ
ルミ子と清佳にはもうひとり家族がいるのに、母と娘の関係性だけが意図的にクローズアップされ、父親はほとんど無視されてしまっている。
結婚生活における男性・父親の希薄さが描かれている。
もっと言えば男性・父親の存在が希薄でも幸せに見えてしまう、日本社会の結婚生活の在り方がはっきりと切り取られている。
ルミ子は田所哲史から語られた「美しい家を築きたい」という言葉だけを受けとり、田所の考える「美しい」とは何なのかを全く顧みずに「美しい家」を築き上げた。
ルミ子が田所の話を聞いていなかったことは、娘の清佳が父親の好物を知らなかったことから読み取れる。
ここで哲史の価値観は無視されている。そしてそのことがまったく問題にならない。
「娘の真実」パートでは、父親(田所)が帰宅すると、いつもソファで競馬新聞に没頭していたと語られる。
それはもしかすると家に居心地の良さを感じられなかったからではないか。
田所はもっと妻や娘と話したかったかもしれない。
違う雰囲気の家を「美しい」と感じていたかもしれない。
それらが叶わなかったから、新聞に没頭して就寝までの時間を過ごすしかなかったのではないだろうか。
夫が妻の意向も聞かずに家のすべてを決め、妻は仕事から帰ってきたら子どもを構いもせずに自分のやりたいことに没頭する。
仮に性別を逆転して書いてみると、初めて「子どもが可哀想」と感じる人が現れるのは不思議なことだ。
やっていることは変わらないのに、女性がやると批判の的になることがある。非対称性の例のひとつだ。
父親の存在の希薄さに話を戻そう。これは田所哲史に限った話ではない。
このテーマは作品全体に貫かれている。
まず、ルミ子の家には父親が現れない。
ストーリーが始まった時点で亡くなっているのかもしれないし、ルミ子の母は離婚しているのかもしれない。
詳細は語られないが、とにかく登場しない。
そして田所の父親も、特に語られもしないうちに亡くなっている。
ルミ子が初めて田所の家に挨拶に行った時、玄関先で出迎える田所の両親の姿が小さく描かれていた。
しかし火事の後越してきた田所家には、父親の姿がない。
おそらく亡くなったのだろう……と想像をふくらませることはできるが、明確な言及はされていなかった。
これは「両親が揃っているべき」という批判ではない。
『母性』という作品が創作物であり、家族をテーマにしているという観点から、この父親の不在は意図的に設定された構造だと捉えているのである。
父親だけに許される逃避
『母性』の作品内において(もしかしたら現実世界の中でも)男性・父親には逃避が許されている。
『射精責任』の言葉を借りれば
まず、男性は妊娠のきっかけになることができるのに、妊娠から逃げることができる。(妊婦にした女性の前から姿を消し戻ってこないことによって)
田所哲史も責任ある射精をしていれば、そもそもルミ子が予想外に妊娠して、一連の出来事がこのように起きることもなかったはずだ。
田所哲史はストレスに苛まれていくルミ子を「見ていられなくて」(仁美談)、仁美が借りている家に帰っていた。
田所哲史が家に帰らなくても、母親の世話をルミ子に丸投げしても、何もお咎めがない。
さらに言えば田所家の現在が映されると、そこにはしれっと帰宅して仏壇に手を合わせている哲史の姿がある。
哲史は田所家に戻っているようだが、田所の母を主に介護しているのは、動作の慣れから推察するにルミ子の方だ。
作品を通して、哲史だけは何も失っていない。何も変わっていない。
もしもルミ子(嫁いできた嫁)の立場にある人が、家事も介護もほっぽって浮気相手のところに通っていたら、もっと批判されるのではないだろうか。
再び現れた非対称性である。
本当に「母」と「娘」だけの問題だろうか?
田所哲史は父親に殴られるストレスから逃避し、ヘルメットをかぶり角材を振り上げて闘った。
家庭環境の変化を「見ていられなくて」仁美の元に帰った。
これで良かったのだろうか?
田所の母(ルミ子の義母)が傷つき衰えていくのを支えるのは、律子を心配し居場所を考えるのは、田所家の畑仕事を手伝うのは、本当にルミ子だけで良かったのだろうか?
良くなかった。
清佳は、家庭環境から逃避し、大学闘争に感情をぶつけた田所哲史を批判した。
仁美が哲史を擁護したことによって清佳は劣勢のように、十代の青い正論のように見せかけられてしまっていたが、彼女は的を射ていたのだ。
田所哲史は学生の頃から変わらない。ずっと逃げ続けており、親に対して無気力な態度を取り続けているのだ。
ただ、家族に手をあげる父親から逃れたことは、批判しない。できない。
子どもには選択肢が限られていて、真っ向から立ち向かうことが必ずしも状況の好転にはつながらないからだ。悪化する可能性の方が高いことだってある。
田所はやり場のない怒りを大学闘争に向けて学生時代を乗り切った。
問題はここから先に始まる。
親に対する態度が子ども時代から変わっていない――親の言葉に抗わないこと、静かにしていること。田所にそれが染みついてしまっていることこそが問題なのだ。
ルミ子の回想を信頼するならば、田所はもともとおしゃべりな人ではないようだ。(仁美と自然に、明るく話しているところから、この見方も真実ではなさそうだと指摘できる)
だが親の前となるといっそう無口に、いっそう服従的になる。
これは「娘の真実」パートで清佳視点の夕食が登場するが、そこでも会話が一切ないことから信頼できる視点だと考える。
ルミ子が田所家に挨拶に行った時も、「あの人たちはいつもああだから」と、どこか諦めているような、親の態度を批判せず受け入れるような言葉を発している。
これは幼少期に哲史が受けた身体的虐待によって、「親には逆らうべきではない」という生存戦略が採用されたことに起因する反応ではないかと思う。自分を守るために親に直接反抗するのは避けて、やり過ごそうという反応だ。
これは虐待時代を乗り切る方策であるから、子ども時代の彼を責めることはできない。
問題があるとすれば、哲史はすでに成人しており、人生の方向性を自由に決める力を持っているにも関わらず、その反応を続けてしまっていることにある。
選択肢の話をしよう。
哲史は親と距離を取り、アパートなど別の場所に家族3人で暮らすことができた。
哲史は積極的にルミ子と関わり、自分の好みを伝えることができた。
哲史はルミ子が清佳を叩いているのを見た時、止めに入ることができた。清佳の親なのだから。(そもそも虐待を見て見ぬふりをするのも罪に問われる行いではないだろうか?)
しかし哲史はそのいずれも行わず(好みを伝えるにおいては、ルミ子が聞き入れなかった/忘れている可能性も否めないが)、周囲の大人たちに従うという反応を続けてしまっている。
仁美は哲史を好ましく思っているから清佳の前で哲史を庇う立場に立ったが、実はあれも絶対に正しい言説ではないのだ。
「見ていられなくて逃げてきた」?
自分の娘を守る、という選択肢を、なぜ取らなかったのだろう?
人間には2種類ある
クライマックスでは、清佳が「女には2種類ある」と発言する。
僕はこの見方をさらに拡大したい。
人間には2種類ある。
「親」と「子ども」だ。
これは『母性』という映画の中に、そして現代社会の中に見ることができる。
ここでは「親」の定義を、次世代の人間を大切に考えられる人、無償の愛を向けようと思う人、としよう。「子」はそれ以外の人だ。年齢は問わないものとする。
この視点で見た場合、『母性』最大のアンバランスさが浮き彫りになる。
「親」の定義にあてはまるのは、ルミ子の実母だけだ。
他は全員「子」である。
実母と一心同体であることを重視し、母親との精神的境界線が融和しているルミ子は「子」である。
過去の反応を引きずり、親に逆らえず、妻から子への暴力を止めに入れず逃避してしまう哲史は「子」である。
自分の希望を押し付け、自分を「世話される人」の位置に置こうとする田所の母は「子」である。
清佳は子どもたちに囲まれて育った。
だからこそ周りの顔色を窺わなければいけなかったし、融通を利かせてはいけなかった。(周りに確固としたものがないのなら、自分が確固とした存在になるしかない)
周りから受けてしまったこれらの特質を、これから清佳がどう扱っていくのか。
ここに清佳が「親」になれるか「子」のままで子を産むのかがかかっている。
清佳の育ってきた環境はマルトリートメント的(不適切な養育環境)であったと言えるだろう。
マルトリートメント的環境で育った子どもは脳の発達が阻害されることが分かっている。正確な診断名ではないが、養育環境によって発達障害的な特性を持って成長することを「発達性トラウマ」と呼ぶこともある。
清佳は発達性トラウマを抱えている可能性が高い。
融通の利かないこと、周囲の目を気にしないこと等にその片鱗が窺える。
そもそもは、親のせいだ。
だがマルトリートメントを受けて育った子どもが大人になると、その特性をどうするかの責任は子どもに降りかかってしまう。
生まれ出て人間社会に出て行く時点で、大きなハンデを背負わされている。
責任を背負う覚悟を持たないまま、子どもを産んでしまったら、無意識のうちにマルトリートメントを連鎖させる可能性がある。
ルミ子は「母」になれたのか?
僕は否だと思っている。
確かにエンディングで、ルミ子は清佳からの報告に肯定的な反応をして見せた。
しかしここにも不気味さがひそんでいる。
ルミ子が口にしたのは、ルミ子が実母から言われたそのままの言葉だ。つまり完全なコピーである。
さらにルミ子は微笑んでこそいるが、その口調は暗く、感情を抑えている印象すら受ける。
ルミ子のこの話し方は作中の随所で登場するものだった。
5歳の清佳に「刺繍は小鳥さんにしてもらったら」と促す時。
清佳に「おばあさまに会ったら~」と振る舞い方を言い聞かせる時。
田所の母を施設に入れたらという話題の時に「なんでそんな恐ろしいこと言うの」と返した時……。挙げればきりがない。
なぜこれらのシーンで、ルミ子の声は感情を抑えたような調子に聞こえるのか。実際に感情を抑えているからだ。
つまり、これらはルミ子の本音ではない。
本音と思いこんでいるかもしれないが、絶妙に本音に紛れ込んだ固定観念なのである。
ルミ子の母の言葉は、ルミ子にとって「孫ができたらこういう言葉をかけるものだ」というテンプレートとして記憶されたのだろう。
だからそのまま清佳に伝えた。
ルミ子は記憶を頼りに実母をなぞっているだけで、それは「親」になったとは言えないのではないか。
告解室でルミ子が「全部私が悪かったのです」と告白するシーンがある。
あれは一見己の過ちをすべて認め、心を入れ替えて清佳に接するようになったと捉えることができる。
だがあれですべて解決したとはとても思えない。
人間は罪の一部を認めて深く反省し、行いを改めることができてしまうからだ。
つまりルミ子は自分が悪かったことに気づいたかもしれないが、「己の行いで間違っていたことすべて」に気づいたとは確定できない。
そして仮にすべての間違いに気づいて改めていたなら、清佳の報告を受けた返答はもっとルミ子らしいものに、もっと愛情のこもった口調の言葉になっていたはずではないか。
ルミ子は「母」を模倣することができるようになった。
それは進歩ではあるが、模倣は完成ではない。
ルミ子はきっと永遠に「娘」なのである。
文責:直也
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