ペンはナイフ
「ペンは剣よりも強し」という言葉がある。これはメディアの思考・言論が第4の権力とも言われるようにその影響力の大きさを揶揄したものだ。
一方、私がここでいうナイフは、少し違う。
毎回、記事を書くたびに、心身共にそれなりのエネルギーを使う。極端な言い方だが、自分の身を削って、書いている感覚、文字通りのナイフだ。
内容はともあれ、まず自分との対話から入り、それに伴い溢れてくる言葉の整理整頓、(時として痛みを伴う)経験の振り返り、そして記事によって誰かが傷つかないか、といった細心の注意も払う。
自分の感情やプライバシーをさらけ出すことも、ある程度の羞恥心が伴う。
こうしたプロセスを踏んで、投稿するので、内容にもよるが、書いた後はクタクタになる。
「いつか本を出版できたら」といった願望もあるのだけど、この調子だと、本まで書いたら、エネルギーが尽きて、死んでしまうのではないかとすら思う。(おそらく、肩肘張らずに書いた方が良い記事は書けるのかもしれないが)。
そうまでしてなぜ書き続けるのか。
前にも述べたが、書くことは、辛い経験に対するセラピー的な意味合いがあった。
それに加え、ここ何年か、ずっと社内で閉塞感を感じながらも、表現できずに気持ちを抑えていたので、その反動が今怒涛の如くやってきたのだと思う。
記者時代は、記事が海外にも配信されていたため、読者は広範囲だった。内容の正確さはもちろん、その影響力も常に意識しながら執筆していた。企業ニュースや金融関連のストーリーだと、一部の読者が投資家ということもあり、実際に損をする人もでてくるため、その分の責任は大きい。
媒体は違えども、共通するのは、何かを世の中にさらすことで、大小はあれ、何かしらの影響が出る可能性はあるということだ。それに加え、noteでは、ストレートニュースを伝えるわけではなく、エディターもいないため、自由度は増す。まさに何でも表現できるアートだ。
私にとって、ペン(=書くこと)は自分の心を守るための武器でもあるし、心を抉り出すナイフでもある。
同時に、癒しや喜び、達成感も与えてくれる特別なツールだ。