真実を知ること vs 知らずにいることの幸せ
真実は知るべきなのか、知らないままのほうが幸せなのか――この議論は、結構ネット上でも頻繁にされている。「無知は罪」と「知らぬが仏」は相反するが、状況次第で、どちらも的を射た言葉だ。
ここ最近、私は、知らずにいることの方が幸せなのでは、と感じることが多い。
以前記者をしていた時は、「(真実を)知ること」のために全エネルギーを注いでいた。
ネタを小耳にはさむと、さっそく事実を突き止めるべく、取材を進める。
複数の関係者に話を聞いていくと、一つの事柄に対し、意見の食い違いがみられることもある。
「誰が嘘をついているのだろうか?」
まるで芥川龍之介の「藪の中」のように、それぞれの証言もバラバラだ。
人は、自分の都合の良いように物事を解釈しがちだ。その結果、少しずつ真相から逸れ、その内容が事実として語られているということも多い。真実はたいていお互いの言い分の中間点にある、と先輩記者はよく言っていた。
「企業Aが企業Bに出資を検討」といったM&A案件では、企業間の思惑が飛び交い、双方の言い分のズレも生じることが多い。
機密事項の多いM&A案件を取材する場合は、当事者は当然、オフレコでも口を閉ざすことがほとんどだ。取材先の顔の表情から微妙な変化を感じ取るしかない。
交渉のど真ん中にいる人に、事実をあてにいったとき、「知らない」とポーカーフェイスでかわされたこともあった。ある時は、早い段階で詳細を掴んでいたため、突き詰めたが、交渉が壊れることを警戒してか、嘘をつかれたこともある。(その方は、罪悪感からか、「〇〇新聞が夜中の2時過ぎに記事を出すみたいだから」と直前に連絡をくれ、他社に抜かれずに済んだ)。
話がかなり脱線したが、言いたかったのは、真実への追求――「知ること」に対する欲求は、人一倍強かったということだ。
では、そんな知りたがり屋で好奇心の塊のような私が、なぜ「知らないことのほうが幸せだ」と感じているのか。
まあ、記者の使命感とは違い、かなり個人レベルの話になるが
・知ることで、余計な感情(雑念)が生まれる。
例えば、今まで出会うことのなかった自分とは違う世界・価値観を持った人を知ることで、「自分の生き方は本当にこれで良かったのだろうか?」と自分の軸にブレがでてくる。そして余計な感情を持つようになる。
「井の中の蛙大海を知らず」というけれど、そもそも大海に出る必要のない人生であるならば、井戸にとどまっていた方が幸せな人生を送れるのではないか。
・知りすぎることで、何が正解なのかわからなくなってしまう。
ネット上で飛び交う情報は玉石混交で、正しい選択ができなくなる。そもそも情報を知る必要ってある?
断っておくと、ダイバーシティ・インクルージョン(D&I)の観点からも、広い知識や見解は必要だし、決して教養や知識に対する無知を肯定しているわけではない。
この「知らずにいることの方が幸せ」議論は、何を知るかの内容によって、論点も変わってくるだろう。
ここで、書きたかったのは、
私自身が持ち続けていた「知りたい」という欲求に対し、「本当にそうなの?知らないほうが幸せなのでは?もっと自分だけをみてシンプルに生きてみれば?」という自分への問いかけに対する、とりとめもないまとめだ。
今の欲求は、「知るという行為」から少し離れて、無の境地を求めることに近いのかもしれない。
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