田中敦子の芸術と、過剰なつながりが求める平衡感覚
現代アートで、有名な具体のメンバー、田中敦子さんの芸術作品が好きだ。学生時代に興味のある程度だったが、その後に興味が高じていろいろ調べたりしていたので、舌足らずな言葉で書き出してみようと思う。
反響し続けるエネルギー
このような一連の抽象作品を制作されていた。絵画は、塗りたくられた重たい円と、ほとばしるように描写された線で構成される。まるで一瞬の雷が、瞬間の勢いを殺さないよう圧縮され、緊張感をもってキャンバスの表象として配置されている。絵を目前にすると、この勢いを感じずにいられない。
それは、プログラミングパラダイムのオブジェクト指向における、ポリモルフィズムを先見したような表象だ。すべて同じ機能を持っているが、1つ1つが異なる振る舞いをしている。結果を求めて収束せず、置かれた環境に従って、相互につながり干渉し続ける。
プログラムに非ず。視覚に飛び込んで、脳内で反響している。それらは枠に終始せず、現実世界の群像のように捉えることができる。
電気服にみるスター性
こんなことを言うと、界隈の方に怒られるかもしれないが、この画像にスター性を感じるのだ。一言で言うと、ヤバい。
この電気服、初見ならインパクトでファニーに感じるかもしれない。表情がなんともシュッとしている。女性作家で同じ絵画もオブジェクトも身体表現もし、活躍している方だと、草間彌生さんを思い出す。あの方もそうだが、スター性という言葉だけで、片付けられるものだろうか。自分はそうでないと思う。具体の活動の特異性の中でも、際立ってコンセプチャルに思う。
それにしても、熱くはないのだろうか?
(実際のところ熱かったらしい)
作品に共通してみられる身体性
服なのに、蛍光電灯。さらにパフォーマンスなのに、オブジェクトとともに場に留まっている、というアンビバレンスさ。
しかし、その電気服は、きらびやかな電灯が個人を強調・支配するかのように、身体性に満ちた表現をしているよう感じられる。これは電気服に限らず、パフォーマンスでも、オブジェクトでも、絵画でも、ベルを鳴らすインスタレーションの音でも。同じように溢れ出し、干渉しあうエネルギーが身体(直接の、あるいはその延長として)表現として表されているように思う。
接触と平衡
田中敦子さんの作品は、手法に寄らないコンセプチャルな表現だが、手法によって異なる関わりかたを提供している。絵画、オブジェクト、パフォーマンス、インスタレーション…そのどれもが、鑑賞者との接触をもって作品としている。作品とのインタラクションが生ずる。
この人の作品と向き合うとき、自分と他人、あるいは個人と世界との、平衡感覚を試されるように感じる。複雑に配線が絡み合った世界で、人はなお相互につながり、お互いを干渉しつづける。この絵を前にして、何を感じるのか。
決して、今のインタラクションデザインやHCI(コンピュータとのインタラクション)の文脈では語られないが、万人がスマホをのぞきこむ現代に、何かを伝えるような声が聞こえなくもない気がする。