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吹雪荘物語 ② ~津辻婆さん~

吹雪荘がどの辺に在ったか…今じゃ良く覚えていない

共同玄関の木枠でできたガラス戸はいつも開けっぱなしで、住人達の靴が乱雑に取り散らかっていた

薄暗い廊下の両脇に三部屋ずつ並んだ二階建てで、風呂無し、共同トイレの四畳半!

とにかく古い建物だった…

俺は1階の真ん中で、隣に住んでた「津辻」婆さんとは直ぐに仲良くなった

いつも部屋の引き戸が開けっぱなしで、突き当たりに在るトイレ脇の部屋なもんだから、用を足しに行く度に目が合う

それでも一向に構わず、テレビを見ながら「こんにちは」と笑顔で声を掛けてくれた

住んでから分かったんだが、此処は暑い!だから俺も窓は開けっぱなしにしてた、でも津辻さんは窓から入り口の扉から全開なんだよ!

そんな彼女は猫を数匹飼っていて、と言うより野良猫に部屋で食事を与えていた。そして夜中になるとエサを手にした津辻さんがアパートの回りを探しまわるんだよ

「トビ子〜ご飯だよ〜トビ子〜!」

そして開け放した俺の部屋のまど越しに「ウチのトビ子見なかった?」と聞いて来るのが日課だった

最初はビックリしたぜ!変な声が聴こえるな、と思ったら、暗がりの中で猫を抱えた老婆が窓越しに寝てる俺を見てるんだからな!

でも直ぐに慣れたよ、だんだん聞かれる前に、布団で横になったまま「今日は見て無いよ!」って言うと、寂しそうな声で「トビ子〜ご飯だよ〜」って去って行くんだ、夜中だぜ!

そんなある日、津辻さんがおでん🍢をどんぶりになみなみと入れて「作りすぎちゃったから!」と持って来てくれたんだ

どんだけ作ったんだ!と思いながらも平げたら喜んでくれて、それ以来色々と世話を焼いてくれる様になったよ、

いつだったか、バイトを終えて直ぐにバンドの練習に出かけなくちゃいけない時に「カレー作ったんだけど…」と言ってくれたんだが「今、時間がなくて…」と断ったらとっても悲しそうな顔をして、薄暗い廊下の奥から見送ってくれたっけ

そんな吹雪荘で一人暮らしをして暫く経ったある日、俺の母がアパートを訪ねて来たんだ、当然いつもの様に徘徊している津辻さんと顔を合わせた

俺は「母です」と紹介し、母も「何時もお世話に…」なんて挨拶したんだ

すると津辻さんは「息子なんて、どこが可愛いのかね!」と嫌味と言うよりも、自分の過去を吐き捨てる様に呟いた

おそらく何かに触れたらしい…そこには俺の知らない津辻さんがいた

俺は津辻さんの身の上話は何も知らないし、どう生きて来たのかなんて全く知らない

しかし、カレーを断った時の薄暗い廊下の奥から俺を見送ってくれた悲しそうな顔と、母に対する豹変した態度を思うと

今の俺なら抱きしめたくなる…

でもあの頃の俺は吹雪荘の外に広がる世界に心を奪われていたんだ

その後は何時と変わらず、おでんやら魚やらを俺に運び、夜になるとトビ子を探して徘徊する

これが吹雪荘での何気ない日常だった…

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