
「ジェンダー・マリアージュ」って何?から「ノーディベート」にたどり着いた話
社会問題(同性婚の合法化)を真剣に扱ったドキュメンタリー映画のタイトルが「ジェンダー・マリアージュ」…皆さんなら、どう感じますか。わたしの第一印象は「このタイトル、最悪!」でした。
日本で上映される外国映画の邦題に、意味不明なもの、奇妙なもの、的外れなものなどがあることは、日本の映画ファンは(映画ファン以外も)わたしが知る限り、常に話題にしてきました。今でも、ブロガーが作ったさまざまなリストやランキングがネット上で見つかります。一方、タイトル自体が一篇の詩のようで、かつ映画にぴったりな名邦題も存在します。
外国映画の原題と、同じ映画の日本上映用タイトルを比較した学術研究も存在します。中でも、尾野治彦著『「視点」の違いから見る日英語の表現と文化の比較』(2018)では、アメリカ映画の原題と邦題だけでなく、アメリカで上映時に使われたポスターと日本でのポスターの比較をして、日英語の表現、それぞれの文化における世界観などを論じていて、とても読み応えがあり、このようなテーマに関心がある方にお薦めします。
「ジェンダー・マリアージュ」 って何?
さて、前置きはここまでにして— noteのタイムラインにあらわれた記事のタイトルに「ジェンダー・マリアージュ」という言葉を見つけました。「『ジェンダー・マリアージュ』?何それ?」と思って、クリックし、記事を読みました。それは、「ジェンダー・マリアージュ ~全米を揺るがした同性婚裁判~」というアメリカで制作されたドキュメンタリー映画の邦題で、記事はその紹介とレビューでした。
記事の本文には、とくに感動することも反対することもありませんでした。けれど、わたしには「ひどい」「最悪」と思える邦題について何も書いていないことが引っかかりました。そこで、ごく短いコメントをしました。
どなたも おっしゃらならないのでワタクシからひと言…
映画のタイトル(邦題)が最悪!
「わたし」ではなく「ワタクシ」と書いたのは、少しユーモラスに「僭越ながら…」という意味を言外に込めたつもりです。「最悪」な理由は明らかだと思い、書きませんでした。その結果、計814文字のお返事をいただきました。その中で、わたしに質問をいくつかなさっているので、返事しようとしたら、ブロックされていました。
たった39文字のコメントに、自分は814文字分の返事はしても、相手には発言させない。修辞的なものかもしれませんが、相手にあれこれ質問しておきながら…。これは、「ノーディベート」ですよね。
ノーディベート
「ノーディベート」とは、ご存じかとは思いますが、一応説明しますと、自分とは意見を異にする人、あるいは単に気に入らない人との議論(ディベート)を一切拒否・回避する方針のことです。
昨今、急進的な意見をもつ人が、公的な議論の場に出てこないことがよくあります。さらに、「自由世界」であるはずの諸国で言論の自由をおびやかす動きとして、自分とは意見を異にする人が公的な場で発言していると、相手を「ファシスト」「偏狭者」「差別主義者」などと罵倒し、大声でわめいて黙らせ、その場から立ち去るなど、とにかく落ち着いた議論が拒否されることがあります。(フランスではあまりないかも・・・皆、議論が大好きで口が立つし。)オンラインの文字コミュニケーションでは、SNSで相手をブロックしたり、可能であれば相手の書き込みを削除したりします。
noteのユーザーには自分のページでブロック機能を使う自由がありますし、わたしはこれに反対しません。けれど、わたしには、この方の返事の内部矛盾と、返事の中身とノーディベートという態度の矛盾が気になるのです。
いただいたお返事
上記のわたしのコメントにいただいたお返事は以下の通りです。
まずお伝えしたいのは【シスカさんが「最悪!」と考える理由が一切記されていないため、おっしゃられていることに説得力を感じません】ということです。
次に、私は本作の邦題が「最悪」であるとは思いません。良いとも思っておりませんけれども(ゆえにサムネには「原題」が記された画像を使用しております)。
また本作の邦題に関しては「本作で描かれている内容に興味の無い人が大多数を占める日本において(同性愛差別が長年に渡り横行し、同性婚が法律で認められていない日本において)、少しでも多くの人に鑑賞してもらうために考えられた邦題」であると感じております(それがたとえ一部の人には至らないものであったとしても)。
ちなみにシスカさんは、海外のドキュメンタリー作品を日本にて劇場公開することが、如何に困難なものであるのかということを、ご存知でしょうか? そしてそのような「配給会社側の事情」にも配慮した上で、本作の邦題を「最悪!」とおっしゃっているのでしょうか?
「最悪!」の一言だけでは、シスカさんが何を考えてそのようにおっしゃっているのかが、まるで伝わってきません。
私は「批判」には価値があると思いますけれども、「非難」には価値が無いと思います。
嫌味ではなく本気で思うので記しますけれども、せっかく翻訳を生業となさっているのですから、まずは配給会社にシスカさんが本作の邦題を「最悪!」と考える理由と、ご自分が良いと思う邦題を、その理由をきちんと添えて「直接」伝えてみてはいかがでしょうか? 配給会社へは、本作の公式サイトから容易に連絡可能となっておりますし、もし配給会社がシスカさんの案を良いと思ったなら、今後シスカさんに仕事を依頼する可能性もあります。そうなれば、日本の観客は、より良い「邦題」にて海外の作品と出会えることとなり、シスカさんは気持ちも満たされお金も得て、配給会社の利益も増す可能性は高まり……と、好循環が生まれるように思うのですけれども?
書き込むつもりだったわたしからの返事
わたしは、日々いろいろあっても(実際いろいろあります)基調としては生きていることに感謝しつつ、「気持ちも満たされて」暮らしています。けれど、いくつかの質問とともに、「まるで伝わってきません」「『批判』には価値がある」とおっしゃる方に説明するチャンスがないことには、フラストレーションを覚えます。そこで、書き込むつもりだったわたしの返事を以下に記載します。ご本人の目に留まるか否かはわかりませんが、他の関心のある方々にお読みいただき、何かの参考にしていただければ幸いです。
たしかに、「最悪!」だけでは、わたしがそう考える理由がわからないかもしれません。理由は次の通りです。
1)日本で上映されるのに、日本語タイトルではない。
2)「ジェンダー」は英語genderのカタカナ表記、「マリアージュ」はフランス語mariageカタカナ表記という不思議な組み合わせで、このタイトルは日本語でも、英語でもフランス語でもなく(*追記)、真面目で写実主義的なドキュメンタリーである本作品のレジスターにそぐわない(映画はシリアスタッチなのに、タイトルがふざけているみたい)。
3)洋画・ドキュメンタリー好きでも外来語・カタカナ語が苦手な日本語話者のことは考慮していない。
ですから、「(日本において)、少しでも多くの人に鑑賞してもらうために考えられた邦題)だとお考えになる〇〇〇さんの意見には説得力を感じません。ある意味、日本語話者内の言語的マイノリティーを排除するタイトルであるとも言えます。とくに、「ジェンダー」という言葉の使用は、「少しでも多くの人に鑑賞してもらうため」というよりは、特定のテーマに関心をもつ人たちがすでに想定観衆なのではないかと思わせます。このタイトルに「本作で描かれている内容に興味の無い人」を引きつける力があるようには、わたしには思えません。
(*追記 ここは、「ジェンダー」「マリアージュ」はそれぞれカタカナ語として日本語になっているかもしれないが、二語の組み合わせはそうではないという意味です。「チョコレートケーキ」も「ガトー・オ・ショコラ」/「ガトーショコラ」も日本語になっていても「チョコレートガトー」とは言わないように。)
ちなみに、上述の著書で尾野教授は、洋画の邦題のカタカナ表記について、以下のように論じています。
カタカナ語の表記自体が、そもそも、感覚志向の表れとも言えるが、これは、いいかげんなフィーリング志向の表れと言っておく必要があろう。
いただいたお返事で、わたしが聞き捨てならないと思い、どうしても反論したかったのは、「配給会社側の事情」にも配慮した上で、本作の邦題を「最悪!」とおっしゃっているのでしょうか?の部分です。わたしがするつもりだった返事の続きです。
ドキュメンタリー作品に限らず、何であれ制作物を完成させ、世に出し、大勢に知って(鑑賞して)もらうためには、かなりの労力、時間、資金が必要なことは知っています。けれど、そのプロセスの「困難」およびそれについて知っているか否かと、作品の質やネーミングの評価はまったくの別問題です。制作・供給者側の苦労を配慮して、作品について意見を述べるのを自己検閲する義務は誰にもないと思います。そのような「配慮」は、批判と言論の自由の原則に反します。
この方の矛盾は、「批判」には価値があると言いながら、ノーディベート方針をとるだけでなく、誰かの苦労に配慮して、評価・発言をつつしむべきだと示唆なさっていることです。このような態度は、私生活で、友人知人に対してなら理解できます。たとえば、料理下手の友人が病気の自分のために食事を用意してくれたけれど、味付けがちょっと…という場合、友人に感謝こそすれ、「ひどい味付けだ」なんて言いませんよね。
けれど、社会人が公的に何らかの仕事をして、世に評価を請うとき、「苦労したんで、出来ばえがイマイチでも見逃して」と言いますか?それはプロフェッショナルではありません。世界各地で催される映画祭で、関係者の「困難」を規準に作品賞が授与されますか。何かのコンペティションで、審査員長がグランプリ受賞者に「作品は今ひとつだが、あなたは大変苦労しながら創作したので、あなたを選びました」なんて言ったら、最大の侮辱です。
お返事の最終部では、わたしが配給会社に連絡すれば、といったことを「嫌味ではなく本気で」書いていらっしゃいます。これについては以下のようにお返事するつもりでした。
わたしが配給会社に直接伝えては、というご提案について。世に出回っている映画やその他の制作物に関して、わたしが自分の感想・意見をどのような行動にうつすかは、わたしの自由です(責任である場合も)。また、何らかの行動をとっても、そのことを第三者に知らせる義務はありません。気持ちや収入のことまで考えていただき恐れ入りますが、翻訳者として誰とどのような仕事をするかも、わたしの自由であり、責任であり、自分で決めます。
ところで、この「配給会社にシスカさんが・・・伝えてみては」という提案は、同じようなことをどこかで聞いた気がしました。そして、思い出しました。2008年に起きた「スタンダール誤訳論争」です。数多くの誤訳を指摘した大学教授に、出版社は「N先生の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」と回答しました。同じような態度(ひらきなおり?)…もしかして、わたしをブロックしたあの方は制作関係者だったのでしょうか。
ふりかえると、最初のコメントに「なぜ最悪と思うのですか」と回答して相手を理解しようという姿勢もなく、自分は814文字書くだけ書いてブロックし、コミュニケーション拒否…この方は感受性が強すぎるのか、沸点が低すぎるのか…「何を恐れているのですか?」と問いたくなります。
次は「マリアージュ・〇〇〇〇」
いずれにせよ、この記事を書いてフラストレーションを解消し、気持ちはフルに満たされました(笑)。わたしは「同性婚に大反対の偏狭者」に認定されたのでしょうか。わたしの自己紹介の記事以外お読みになっていなければ、そうなっているかも。
実は、数日前から新しい記事を書いていたのですが、この記事を書くために、すっかり中断してしまいました。新記事のキーワード、何だと思いますか?偶然にも、「マリアージュ・〇〇〇〇」!本当です。完成のあかつきにはお読みいただければ幸いです。
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追記(2024年12月19日)
このオンライン雑誌記事(與那覇潤・著)を読んで、「何を恐れているのか」、日本社会がどうなっているのかが少し理解できた気がします。
記事の最後で予告した記事はこちらです。