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朝日新聞の書評 【著者に会いたい】の読後感
この本「及び書評」を読んで、私が先ず想い至ったのは、立川志の輔師匠の創作落語でありました。
立川志の輔師匠の新作落語である「大河への道―伊能忠敬物語―」は、2011年の初演以来、“落語を超えた究極の話芸”と絶賛され再演を繰り返す超人気演目で、私も大好きな演目でした。
立川志の輔師匠の公演での、落語【ねずみ】と国分町・外人屋考で書いた通り「 https://note.com/jazzy/n/n992ea75a614f 」仙台とも繋がりがあり、私の大好きな演目の一つですが、もう一つ大好きな演目がありまして、それが“落語を超えた究極の話芸”と絶賛される傑作新作落語が小説化されたのが立川志の輔師匠の『大河への道』でして、その創作落語のお話が書籍として発刊されましたのでした。
落語もそうですが、小説の内容が実に面白い。
そして満をじして映画として制作され、公開、中井貴一主演映画「大河への道」の原作として、江戸後期の歴史に埋もれた奇想天外な感動ドラマ映画「大河への道―伊能忠敬物語―」と繋がったわけです。
「地球の大きさを知りたい」と50歳で隠居してから江戸に学び、17年もの歳月をかけて、日本中、約4万キロを歩いて測量し「大日本沿海輿地全図」(別名「伊能図」)を作り上げた伊能忠敬の生涯と、「伊能図」の極めて精度が高いことに驚嘆した立川志の輔が、自ら新作落語として練り上げた壮大な物語です。
河出文庫『大河への道』は、この新作落語から書き下ろされた小説版。落語の世界観や物語はそのままに、登場人物の心の機微を丁寧に活写した作品です。
俳優・中井貴一が主演をつとめる映画「大河への道」(中西健二監督・森下佳子脚本)は、「伊能忠敬」の大河ドラマを制作しようと奔走する千葉県の市役所職員が、史上初の日本地図を完成させた人物が伊能忠敬ではないことを知ってしまったことから始まる物語が描かれる物語です。
ここからは私見ですが、早稲田大学名誉教授 後藤乾一さんの著作、『われ牢前切腹を賜る 玉蟲左太夫とその時代』を元とした仙台領の武士、玉蟲左太夫の一代記を「大河ドラマ」に出来ないか、という事なのです。
書評にもあるように、
玉蟲左太夫が書き残した諸文書を読み、足跡を追って行くと
① 玉蟲左太夫は「植民地近代の姿を、正確に客観的にとらえている
② 地域研究の先駆として注目されていい
③ 日本人の『近代知の原型』を思わせる玉蟲左太夫の思考と洞察力と筆致及び表現力が特筆すべき所だったこと
④ 蝦夷地・樺太を視察し、詳細に記録 したこと
⑤ その情報収集力への評価が、遺米使節団につながったとみられること
⑥ 政治・社会情勢を記す『官武通紀』全42巻を編集したこと
⑦ そして戊辰戦争勃発し、活躍したこと
⑧ 仙台領内の権力【佐幕派・官軍及び薩長土肥派】の対立から捕らえられた
⑨ (1869) 明治2年4月9日、牢前切腹を命じられ数えで47歳の生涯を終えた
⑩ 「玉蟲は言論の自由の必要性や賄賂の厳禁など、『治国ノ大要』を説いた
⑪ 現在の日本を考える上で必要なヒントを提供している点
という以上の視点が見て取れると想います。
そこで、伊達政宗公だけではない、さらに言えば、現在の宮城県や仙台をはじめとした各自治体では、旧仙台領・現在の岩手県南部及び宮城県における先人教育が全くなされていない事が如実に見て取れる現況を鑑み、仮称「玉蟲左太夫が生きた時代」的な視点で、大河ドラマ化する事で、御一新以後、宮城における教育方針は、郷土の人人が紡ぎ重層的に折重なり合って現在があると云う歴史と、先人の知恵や労苦の末に成し得てきた正当な業績や道のりを学ぶという機能が無い現在の宮城県や仙台にあって、玉蟲左太夫が生きた時代を「大河ドラマ」として観て学ぶことで、現在の我々の中にある、生まれ育ち、生活をしている土地を郷土と想えるのか否か。という視点で、今一度立ち返る機会となる「良き切っ掛け」となるのでは無いだろうか。
生まれ・育つ土地の持つ折り重なる先人の脚跡や歴史を学ぶ事で、より充実した郷土愛の醸成が図られる一助になりはしないだろうか。
重ねて言うが、【生まれ・育つ土地の持つ折り重なる先人の脚跡や歴史を知るか、知らぬかの差】、その差はことのほか大きく、現況は哀しいと言う言葉よりも実に情け無いと感じるのは私だけであろうか。
もうひとつ、大河ドラマ化の道 仮称「玉蟲左太夫が生きた時代」の実現がもたらすのは、戊辰戦争後に襲った大疑獄事件「仙台騒擾」はなぜ起こったのか、散って行った秀才たちはなぜ死に行かねばならなかったのかと言う、忘れてはならない命題が其処にある。
それは、戊辰戦争後、新政府は敵対した奥羽越諸藩への処分を発表、仙台は会津と並んで厳しい処分を受け62万石から28万石へと領地を削られ、翌年には會津の松平容保公や、薩長や官軍との交渉と、それに続く奥羽越列藩同盟を主導した首席奉行但木土佐と坂英力の2人が東京麻布の仙台屋敷で斬首に処せられました。また、玉蟲佐太夫や若生文十郎も仙台で牢前切腹となる旧主戦派を一掃した「仙台騒擾」があります。
そんな先人の歴史や、明治大正昭和に生きた先人に思いを馳せる切っ掛けとなる「大河ドラマ」仮称「玉蟲左太夫が生きた時代」の実現に向け、微々たる一歩を歩みたいと切に願う、朝日新聞 令和6年202410月26日(土)朝刊 書評欄【著者に会いたい】『 われ牢前切腹を賜る 玉蟲左太夫とその時代』早稲田大学名誉教授 後藤乾一さん「近代知の原型」をたどる、の読後感でありました。
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朝日新聞 令和6年202410月26日(土)朝刊書評欄 【著者に会いたい】『 われ牢前切腹を賜る 玉蟲左太夫とその時代』
早稲田大学名誉教授 後藤乾一さん
「近代知の原型」をたどる
万延元(1860)年、幕 府の遣米使節団に加わった仙 台藩の中級藩士・玉蟲左太夫 は、克明な記録『航米日録』 を残している。
米人水夫が病死し、水葬した時のこと。米船将ら高官の 〈悲歎ノ色〉は、〈其親切我 子ノ如シ〉と思う心情の表れ であり、ここに米国の隆盛の 因をみるという。 また、米国では外交や宣戦 なども〈衆ト会議シテ〉決めると知る。〈縦ヒ大統領卜難 ドモ〉、独断専行は許されな い。儒教的教養で育った玉蟲 の中で、「夷人」が「異人」 に変わっていく。
インドネシアを中心に、東 南アジアと日本の関係史を研究してきた著者が、玉蟲にひかれたのは、米国からの帰途、オランダ領東インドの首都バタビア(現インドネシア ・ジャカルタ)に滞在した際の描写を読んだからだ。
〈学校・病院・芸術館・寺 院・音楽堂都備ラザルコトナク、又四達ノ地二八戯場・ 曲芸所・骨董店等列布シテ人常二相集ル。而シテ支那人・蘭人ト市街ヲ分ツ〉
「植民地近代の姿を、正確に客観的にとらえています。 地域研究の先駆として、注目されていい。日本人の『近代知の原型』を思わせます」玉蟲が書き残した諸文書を読み、足跡を追った。
蝦夷地・樺太を視察し、詳細に記録 したこと。その情報収集力へ の評価が、遺米使節団につながったとみられること。政治・社会情勢を記す『官武通紀』全42巻を編集したこと。 そして戊辰戦争勃発。仙台藩内の対立から、捕らえられる。(1869) 明治2年4月9日、牢前切腹を命じられ、数えで47歳の生涯を終えた。
「玉蟲は言論の自由の必要 性や、賄賂の厳禁など、『治 国ノ大要』を説きました。
現在の日本を考えるヒントを提供している、と思います」 著者の第1作は、オランダとの独立戦争で、インドネシア独立軍に身を投じた市来竜夫の評伝『火の海の墓標』だった。
首相の密使として沖縄 返還交渉にあたった若泉敬の生涯をたどる『「沖縄核密約」を背負って』も書いた。「若泉さん、市来、玉蟲。 求道者的なところが、私の中ではつながっていましたね」
(作品社・4180円) 文・石田祐樹 写真・葛谷晋吾