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ちょっと休憩 「あの頃のお正月」


ジャスミンにも 子供時代があった。
そんな昭和32、3年頃の 私のお正月風景。

子供の頃のお正月は いつも寒かった。

元日の朝は毎年、下着から全部 脱がされて
新しく買いそろえた物に 着替えるのだけれど
これが寒くて寒くて 歯がガチガチ鳴るくらいだった。

暖房というと 火鉢と炬燵だから
部屋の中は
まるで ナショナルの冷蔵庫の中みたいだった。

それから晴れ着を着せられて
お父さん、お母さんと
「あけましておめでとうございます」
お雑煮とおせちをいただく頃に やっと暖かくなる。

私の父も母も 兄妹が多かった。
父は5人兄妹で 今なら充分に多いけど
母が8人兄妹だったので 数で負けてた。
ジャスミンは一人っ子なので まるでみそっかすだ。

父の実家は地方だったので 
お正月といえば 高円寺にある母の実家に行った。

8人もいる 母の兄妹たちが
それぞれ 連れ合いや 子供たちを連れて来るので
2日組と3日組に分けられていた。
ウチは ずっと2日組だった。

母も着物で 父もおしゃれをしていた。
私は着物の上に お被布というのを着て
狐の顔の付いた 白い襟巻をしていた。
今思うと ちょっと怖い。

実家に着くと まずおじさん(母の兄)に
畳に手をついて おめでとうを言う。
おばあちゃん(母の母)は その次だ。

この家では 
小さな会社の社長で 一家の長で 大黒柱の
おじさんが 一番偉くて威張っている。
おばあちゃんも
自分の息子である おじさんに敬語をつかう。

それから おじさんの奥さんやら その息子たちやら
兄妹の家族やら 従姉弟やら・・
あちこちで おめでとう、おめでとうと
おめでとうが 山のこだまのように なかなか鳴り止まない。

そして子供たちに お年玉が渡されると
今度は ありがとう、ありがとうと
ありがとうが 鳴り渡った。

こだまでしょうか、いいえ 誰でも。

それが終わると 
大きな一枚板の 低いテーブルを囲んで
みんなでおせちやご馳走をいただいた。

おばあちゃんも
おばあちゃん、おばあちゃんと みんなに声をかけられ
幸せそうで
まるで 成瀬作品の三益愛子さんのようだった。

おばあちゃんは
「駅から "乗り合い"で 来たのかい」なんて
バスのことを まだ"乗り合い"と 呼んでいて
おかしかったけど

みんなの会話の中に 天皇陛下が・・なんて 言葉が入ると
崩していた膝を サッと揃え 正座する。
地図の説明で 皇居の前を通って・・なんて言う時も
無意識のように 膝を揃える。

そういう 習わしが 身に沁み込んでいるようで
それがカッコいいなあと 私は思っていた。

しかし何と言っても
ジャスミンが 子供ながらに 一番偉いと思っていたのは
ここのおじさんの 奥さんだ。

毎年、お正月やお盆に
小姑たちの これだけの人数が
2日間にわたって 押し寄せて来るのだ。

そのお料理を
お寿司やお刺身以外は ぜんぶ手作りしていた。
子供たちには
パイナップルの乗った ハンバーグも作ってくれた。

冷凍食品も無い時代、どれだけ大変だっただろう。
食事の他にも お酒や お菓子や お茶のおかわりで
ほとんど一日中 お台所にいるみたいだった。

ときどき覗くと 大きなお鍋が幾つも
所狭しと お台所の床にまで置いてあった。

この季節が近づくと さぞ憂鬱だっただろうな。
それなのに いつも にこにこしていて・・
このおばさんは晩年、重い認知症を患って
都内の病院で亡くなった。

そうやって
おばさんのおかげで 愉しいお正月を過ごした私たちは
毎年、お庭に出て
おじさんの自慢のカメラで 集合写真を撮った。

今もアルバムの中で眠ってる その写真は
これまた小津作品の『戸田家の兄妹』のようだ。

おしまい

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