FLAT理論、深淵への帰路
フラット理論、本編
フラット理論においては始原的大地として無次元、あるいは0次元が設定されている。
ゼロ次元とは、深淵であり、真理である。
しかし、まず初めに前提としてこの理論においては
これまでの次元に対する概念とは全く真逆の特徴を持つ事を理解しておいてほしい。
通常、次元が加算されることにより物質は複雑性を増す。
そのことにより、より高い次元として認識されているが、これは間違いである。
三世代粒子と質量
素粒子には三世代ある、それぞれの粒子は安定性に限度があり、より重い質量の物質は不安定性を持ち崩壊し、より軽い質量へと再構成される。
世界はモノとコトによって構成される。
モノが物体でありコトが情報である為
コトがモノを超えた時その関係性は
超対称性的な結び付きへと変化する。
本来なら指定された空間に、存在可能な質量は決まっている為、
保有出来る情報にも限度がある。
しかしその空間という点において、モノの情報量が限界を超え大きくなると、
コトはモノを崩壊させ、モノは適応しうるコトと共に再構築される。
しかし、コトにおいては崩壊することなく、空間という場を突き抜けて落ちていく。
これが俗にいう、コトがモノを超えた時に起こる現象であり、肉体における好転反応も然り、素粒子の世代変化もこれに含まれる。
本来この現象は起きない。
今ある万物はこの現象の不可逆的な反応により構成されて来た、これは万物の動きが発散的な状態をとる為エントロピーが増大している空間へと動的ベクトルが流れているとも言える。
そのベクトルの中に時間がある以上、
物質性の中にはこの現象は起きてこなかったというわけなのだ。
コトとモノの変異↓
秩序とエネルギーゼロの世界(無)へと至る超重力
基本的に我々が住む世界は
エントロピーが上昇する代わりに、強磁性は薄まる事となる、
故にこれは重力的に個にかかる負荷は減る
因みに強磁性とは、粒子が冷やされ乱雑さを失い、軒並み群れをなす事で、粒子のスピンが揃う
それが起こると場にかかる磁力が増加する
結果的に熱量含め各種エネルギーは減りエンタルピーも減少傾向をたどり、巨大な重力へと形を変えていく
結果的に、場が対応しうる質量を超えて空間に変異を起こし、落ちる、または突き抜ける。
M理論
エドワードウィッテンの提唱したM理論
Mこれが何なのかは本人は明かしていないが、5つの超弦理論を内封する為に二次元と五次元を幕化させた。
たかだか一枚の紙切れを何度も折りたたむコトで、それは質量を明確に示し出す。
その薄さからは到底想像もつかないほどの固さとなる。
❶0次元と2次元はある条件下で同一次元となる。
それは点である。
❷1次元と3次元はある条件下で同一となる。
それは線である。
恐らく、
❸2次元と4次元はある条件下で同一となる。
それは恐らく面である。
❹3次元と5次元はある条件下で同一となる。
それは恐らく立体である。
ここから先は我々にはわからない。
しかし恐らくその様に続いていく。
イカは全くのわたしの見解だが、
四次元目は、素粒子論から言えば、
やはり時間ではない。時間とは恐らく全く別のベクトルの次元である。
むしろ次元では無く、恐らくそれは、本質的には統一理論で言うところの5つ目の力が媒介したものである。
4つの力の中に時間という概念は、独立して入る事ができない。
時空とは空間が時間を伴ったものだが、
空間とはあらゆる次元の中に存在する。
無次元も然りだ。
そもそもこの一貫して次元を空間という概念が貫く以上
空間はそもそも次元の中に内在していない。
所詮次元とは単離された概念を言う。
そしてここからは実際の話だが、
素粒子が本来持つ9つの次元ベクトルの中で、現世界内では3ベクトル以外は発達を止めている。
つまり先ほど言ったルール❹からいけば、
3次元は常に外部フィールドに5次元の膜を所有するコトになる。
1次元目は線であり時間である
基本的にスケールを変化させた時の変化に対しての感覚だが
ここで言う次元とは今まで考えられてきた感覚とは少し違いがある。
通常次元を考える時、点を交差する様に線を引くが、私の場合そもそも感覚が間違う。
❶はスケールを変えた時ベクトル自体は簡単な線ではなく全体に均一に開く
この全体に広がる均一の円が1つのベクトルである。
❷線はスケールを変えると一見2次元の長方形に見える
しかしここから隠れたベクトルが存在し出す。
というか❶と全く異なった動きとなり、ベクトルが3つの方向に働き、それぞれのベクトルには差がある
その差がすでに隠れたベクトルであり、
2次元では既に空間内にxとy以外の何かよくわからない
抑圧的な力が加わり、その形状を維持しているとも言える。
それは外部にある場合もあれば内部から発せられた異なる力の様にも感じ、つまりはやはりその何かよくわからない、形が決定した時に恐らく、わかるであろう異なる力はやはりベクトルであり、
この性質は電子が確定する瞬間とよく似ている。
いや、と言うよりもこの訳の分からないベクトル事態が電子と全く同じ性質を持っている。
非ユークリッド変換
この考え方には既にユークリッド幾何学を無視した概念が存在しているが、
そもそも、万物を考えた時従来の次元の考え方では力を捉えきれないのでは無いのかとさえ思う。
ユークリッドは所詮平面状を捉えた時に適応される数式群であり、
無という空間を捉えた時に発生する線形ベクトルとではなく生合成が取れなくなるのは当然であり、
空間に適応される非ユークリッド幾何学なるものは
確かにその数式系統樹に広がりを持つ。
故にここからは線ベクトルを非ユークリッド幾何学化した状態での話にはなってくる。
その時この線形ベクトルに一つ特徴的な表現をする。
点は、2次元の面にはそのまま派生可能であり、又、3次元の球体にも派生可能である。
わかる様に、点は一次元を所有していない。
確かに連続することで獲得可能だが、
それはもう完全な別物と言え、従来のユークリッドでしか無いのでその考え自体を変換する。
点という視点から見たとき面と球以外は所有するベクトルが同一である為、次元が違えども同じものと言える。
グループ的に1次元は完全にに異なる何かであり、
時間を1次元と見なす場合、0次元と2次元の間に生まれたのが時間だと考えることができ。
一次元とは線というより時間に近い物なのでは無いかと
いう考えが生まれるはずである。
つまり無があり、時間が生まれ
広がるベクトルの力により無は引き裂かれ
表れたのが有なのでは無いかと。
これが非ユークリッドでいう、1次元が持込んだ概念
これはそのまま何かのことを言っている様にも感じる。
そしてその有の始まりの力のみを媒介する時
それは球となり、電子のように何処からともなく掛かるベクトルの抑圧により万物は変化したように私の目には映る。
そう、そのM理論の言う、
膜の一部の正体はそもそも存在すらしないはずのフィールドである。
存在しないとはどう言うことか、
それは5次元目の世界であり、
それが皮膚や、ラケットの面、全く異なるベクトル同士の羅列により生成された概念面、あるいは膜、
俗にいう感じ取った物や事なのでもある。
つまりはやはり人の情緒もこれであったのだ。
情緖は既に5次元の膜を指す存在なのである。
この5次元目を受容する器官、
それこそが受容体である。
外部認識ベクトルの先にある認識不能な5次元膜
本題はここから
あくまで視点を点に置いた時
膜という存在は確認可能かという話だ。
陽子は電子の力で崩壊を免れその形状を保っている。
我々が見てきたモデルは非常に陳腐な作りで
そのスケールは意識的に誤差を生んでいた。
実際それを距離換算すると陽子スケールの一万〜10万倍で
長崎から最大で熊本を越えるほどの距離がある。
我々の認識ではそれだけの距離が直接的に力を相互する事はない。
しかしそれは存在しない訳ではなく、
認識ができていない、
もしかしたら陽子もそうなのかも知れない。
物質の素性が、スカスカである事がわかった今、
考えられる事が一つある。
物質の中に潜む陽子から外部を認識しようとした時、
物質からは恐らく外部の膜は認識できない。
無論我々はその膜を捉え物質を認識する事ができる
我々が認識する物体や人体は
陽子からしたら既に存在しないはずの次元幕を認識しているのであって、
上記の❹の表出してしまったひとつのルールは膜次元が既に5次元なのだは無いかという事である。
わかりやすくいうと、
我々が認識している膜は、陽子にとっての認識不能な5次元で
我々にとっての5次元は皮膚と言う訳ではなく、
認識していないだけで空の先に、いや宇宙の更に先に
既にあふ。
そもそもベクトルが逆である、もはや我々人類が何次元の生き物かわからないほどのベクトルの中で我々は生きてしまっている。
そしてその見えない何かを
さらに外部の我々は
何かとして認識している可能性があるという事だ。
そしてこの膜という存在もやはり時間同様に空間外部に形成される本来認識不能な複合的次元ベクトルの一つで広がる何かなのだろう。
目という受容体の概念↓
情緒に対する感覚、バラした時の感覚↓
そして今この成る程と言ったこの感覚こそが深淵への帰路であり、エネルギーゼロの世界へ還る、超重力はとなる。
その重みは、空間を突き破り、より重い世界へ落ちる。
次回は
❶ボースアインシュタイン凝縮から起きる可逆的次元降下と次元を上昇した情報について
❷単一粒子と、次元移行、確率母数の上昇、唯物論の正体、観測者問題の盲点、電子は確定しない。
たぶんこの辺になって来る。
決め打ちしないと私は脱線します。
フラット理論関連