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30年日本史00686【鎌倉中期】文永の役 対馬・壱岐の戦い

 フビライの命を受けた元・高麗連合軍は、文永11(1274)年10月3日、朝鮮半島の合浦(現在の釜山)を出発しました。
 総司令官はモンゴル人の忽敦(クドゥン)で、副司令官は漢人の劉復亨(りゅうふくこう:?~1283)と高麗人の洪茶丘(こうちゃきゅう:1244~1291)の2名です。この3人が主力軍2万人程度を率いていました。また、主力軍とは別に、高麗人の金方慶(きんほうけい:1212~1300)が率いる高麗軍約6~8千人がいました。
 合浦から対馬までは80km足らずで、その日のうちに軍船は対馬に到着しました。
 当時、対馬守護代を務めていた宗助国は、これまでの元と日本のやり取りを全て知っていたでしょうから、大船団の来襲を見て
「これは戦だ」
と直ちに察知したことでしょう。念のため通訳を介して元軍に来訪の意図を尋ねようと海岸に近づきましたが、元軍側は問答するつもりはなく、船から次々と矢を放ち、さらに千人ほどの元軍が上陸してきました。
 宗助国は僅か80騎程度で陣を構え、弓矢で応戦しました。敵の将軍を思われる人物を倒すなど奮闘したものの、多勢に無勢です。助国を含め対馬勢の多くは戦死し、対馬国府は焼き払われてしまいました。
 対馬では国府の軍勢のみならず住民も多く殺戮されたり、奴隷として拉致されたりしました。元史によると、忽敦は本国に帰還した後、日本人の子供200人を奴隷として高麗王・忠烈(ちゅうれつ:1236~1308)に献上しており、この中の多くが対馬島民だったと推定されています。
 また、建治2(1276)年に書かれた日蓮の書状によると、対馬島民たちは掌に穴を開けられ、そこに縄を通して船の傍に並べられたといいます。現地の人から伝え聞いた話を書いたのでしょうが、日蓮は自らの予言を取り上げてくれなかった幕府を批判するために被害を大袈裟に描いている可能性もあり、そのまま信用してよいかは慎重に見極める必要がありそうです。
 元軍は対馬を10日間に渡って蹂躙し、続いて10月13日に壱岐に上陸してきました。壱岐守護代を務めていた平景隆(たいらのかげたか:?~1274)は僅か百騎で応戦し、2日間の激戦を繰り広げますが、10月15日に自害に追い込まれます。日蓮の書状では、壱岐でも対馬と同様の住民殺戮があったと記載されています。
 元軍は壱岐に7日間に渡って蹂躙しました。早く九州を目指すこともできたはずなのに、対馬に10日、壱岐に7日も滞在したのは、住民から食糧を徴収したり捕虜を拉致したりするためだったのでしょう。

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