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30年日本史00976【南北朝初期】四条畷の戦い 弁内侍との悲恋

かつては「30年日本史」の連載とは別に毎日投稿したいと考えていた時期もありましたが、時間がなくて諦めました。最近はそれどころか、この連載以外の投稿が全くない状態になってしまいました。まあ連載を落とさないことを最優先に考えようかな。

 さて、楠木正行が
「もはや帰ってくることはないだろう」
という悲壮な決意のもとに吉野を出陣した旨を述べました。
 しかし、藤井寺の戦い、住吉・天王寺の戦いと連戦連勝を重ねていた正行が、高師直の大軍がやってきたからといって、突然死を覚悟するというのは不自然です。死を覚悟というのは、四条畷の戦いで正行が戦死したことから逆算した後世の創作とも考えられます。
 正行の出陣については、更に悲恋伝説も伝えられています。史実かどうかは分かりませんが、「桜嵐記」というタイトルで宝塚歌劇にもなっている有名な話なので、ここで紹介しておきましょう。
 鎌倉幕府打倒を企てた罪で処刑された日野俊基の娘・弁内侍(べんのないし)は絶世の美女で、後宮の女官の中でも評判でした。その噂を聞いて、好色で有名な高師直が弁内侍を自分のものにしようと画策しました。
 師直は弁内侍を拉致すべく、偽の手紙で誘い出して誘拐してしまいます。そこにたまたま通りかかった正行が、輿の中から泣き声が聞こえたため異変を察知し、弁内侍を助け出しました。
 互いに一目で惹かれ合った二人は、後に後村上天皇の引き合わせにより再会しました。
 弁内侍は正行に対して
「思ふこと いはで心の うちにのみ つもる月日を 知る人のなき」
と詠み、その思いを募らせます。その思いを知った後村上天皇は、弁内侍を正行に嫁がせようと決定しました。ところが正行は、
「とても世に ながらふべくも あらぬ身の 仮の契りを いかで結ばむ」
と詠み、間もなく死ぬ身であることを理由に辞退したのです。
 その後正行は、四條畷の戦いに出陣するに当たって、弁内侍を訪ねて父・正成の形見の短刀を授け、これを自分の形見にしてほしいと伝えました。
 ついでに後日談までまとめてお話ししてしまうと、弁内侍はこの後、四條畷の戦いで正行が戦死した知らせを聞き、形見の短刀で自ら髪を下ろし、
「大君に 仕へまつるも 今日よりは 心にそむる 墨染の袖」
と詠んで出家し、正行の遺髪と自らの髪を共に如意輪寺の御堂の傍に埋めて、塚を建てました。
 この塚は如意輪寺(奈良県吉野町)の境内に現存しています。

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