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30年日本史00524【鎌倉初期】腰越状*
宗盛・清宗を鎌倉に護送した義経は、元暦2(1185)年5月15日、鎌倉の入口に当たる腰越(こしごえ)に到着します。そこに北条時政が出迎えにやって来て、宗盛・清宗を連れて行ってしまいます。義経は鎌倉入りを許されず、そのまま腰越に滞在させられました。
腰越の満福寺に滞在した義経は、5月24日、心情を綴った手紙を御家人の大江広元(おおえのひろもと:1148~1225)に託しました。少し長いですが名文と名高い文面です。
「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けて朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、雪辱を晴らしました。高く賞賛されるべきところを恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、何の罪もないのに御勘気を被り、空しく血の涙に暮れております。
良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと申します。讒言の真偽を確かめることなく、鎌倉へ入れていただけないままいたずらに日々を送っています。こうして長くお会いできないままでは、血を分けた肉親の縁は空しくなってしまいます。私の運が尽きたのか、はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。
亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が私を憐れんで下さるでしょうか。今更申し上げるのも愚痴になりますが、義経がこの世に生を受けてから間もなく父(義朝)が他界され、私は孤児となって母の懐中に抱かれ、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。甲斐なき命を長らえるばかりといえども、都の周辺で暮らすことも難しく、諸国を流浪し、あちこちに身を隠し、遠国に住んで土民百姓などに召し使われました。
しかし機が熟して幸運がにわかに巡り、平家追討のために上洛し、まず木曽義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬に鞭打ち、敵のために命を失うことを顧みず、ある時は大海で風波の危険を冒し、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になることも厭いませんでした。また甲冑を枕とし、弓矢をとる理由は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いのためであって、他意はありません。
そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。これに勝る名誉はありません。それなのに、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けのほか、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心がないことを日本国中の神に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおもお許しを頂けません。
我が国は神国であり、神は非礼をお受けにはなりません。他に頼る所はなく、ひとえにあなたの広大な慈悲に期待するばかりです。便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りがないことをお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。それによって私も年来の心配がなくなり、生涯の安穏が得られるでしょう。言葉は言い尽くせませんが、ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます」
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