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30年日本史00004【旧石器】直良音との結婚

 音は6年ぶりに会う信夫を手料理でもてなしました。そこでお互いの近況を語り合うことになったのですが、音の身の上話は信夫以上に悲惨なものでした。
 直良音は、明治24(1891)年、島根県で書店を営む商人の家に生まれました。しかし音が教師となった後、父が営んでいた書店が倒産し、多額の借金を背負った上、音は幼い弟と妹を養わなければならなくなったのです。
 幸い、その借金を友人の男が肩代わりしてくれたのですが、その男には下心がありました。ある日、姫路の音の家を訪ねて来たかと思うと、
「金を返せないのなら俺のいうことをきけ。それがいやなら即刻金を返せ」
と脅迫され、手ごめにされたと言うのです。その結果、音は子を身ごもってしまいます。
 音は信夫に、
「できればこのまま姫路に留まっていただけませんか」
と提案します。信夫が家にいてくれれば、その男も諦めて来なくなるだろうと言うのです。
 信夫はその提案に思い悩みますが、その話を聞いた当日、「昨日関東地方を大地震が襲った」とのニュースが飛び込んで来ます。信夫はいても立ってもいられず東京に戻りますが、婚約者の家は全壊しており、その行方は杳として知れませんでした。おそらく亡くなったものと考えられます。信夫はやがて捜索を諦めて姫路に戻るほかありませんでした。
 婚約者を失った信夫は、音と同居を始めます。信夫は結核のため仕事はできませんでしたが、この頃から姫路市内の貝塚を発掘し始めたとのことなので、体調はずいぶん回復していたようです。
 音はお腹が目立つようになった頃に姫路高等女学校を退職し、信夫とともに大分県別府市に移り、そこで出産することとなりました。大正13(1924)年5月に産まれた子は、即座に音の元から遠ざけられ、臼杵に住む信夫の両親の元へ引き取られます。しかし生後9ヶ月で夭折しました。
 出産を終えた2人は新天地を求めて旅立ちます。行き先は信夫の希望により、兵庫県明石市と決まりました。明石には信夫が好む遺跡が多数あったからです。
 音は明石高等女学校で働き始めました。信夫は音に養われながら、遺跡発掘に没頭するようになります。信夫が結婚して直良姓を名乗り始めたのはこの頃のことでした。
 信夫と音は一男一女に恵まれ、幸せな結婚生活を送りました。信夫は毎日考古学の書籍や論文を読みあさり、付近の遺跡を発掘しました。余程の理解がなければ、こうした夫を支えることは難しかったでしょう。
 信夫は、縄文時代よりも前に日本列島に人類がいた可能性を指摘し、1万年以上前の遺跡を掘りたいと念願していました。そして、明石市の西八木海岸にはそのような遺跡が残る条件が揃っていると考えていたのです。そして昭和6(1931)年4月18日、信夫は考古学界を揺るがす大発見をすることとなります。

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