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30年日本史01154【南北朝後期】世田山/湯築/高輪山城の戦い
中曽根内閣の後藤田正晴官房長官が記者の前で内閣改造の名簿を読み上げるとき、誤って河野洋平(こうのようへい)を「かわのようへい」と読んでしまったことが話題になりました。徳島出身の後藤田さんには「こうの」より「かわの」の方が馴染みがあったのでしょうね。
四国と九州の状況を見ていきましょう。
伊予の有力武士といえば河野氏(かわのし)です。これまで、弘安の役で活躍した河野通有(00693回参照)や六波羅探題攻略戦で活躍した河野通盛(00778回参照)などが登場してきました。
室町幕府が開かれた後も、伊予守護には代々河野氏が就任してきたのですが、阿波を拠点とする細川頼之が四国を席巻し、伊予守護職は河野通朝(かわのみちとも:?~1364)から取り上げられ、細川頼之に授けられてしまいました。これにより河野・細川関係に緊張が走ります。
両者の緊張は武力衝突に発展し、正平19/貞治3(1364)年11月、細川頼之が伊予に侵攻して河野通朝の居城・世田山城(愛媛県西条市)を攻撃しました。当主通朝は自害に追い込まれてしまいます。
細川頼之は湯築城(ゆづきじょう:愛媛県松山市)を占領し、代官として細川天竺禅門(ほそかわてんじくぜんもん:?~1365)を置きましたが、正平20/貞治4(1365)年1月、そこを通朝の遺子・河野通堯(かわのみちたか:1348~1379)が攻め、天竺禅門を討ち取る戦果を上げました。
ちなみに湯築城は松山城の向かいにある城で、二重の堀を持った平山城としての価値が認められ、松山城とともに日本百名城に選出されています。
頼之は反撃に出ます。4月に河野通堯の籠もる高縄山城(愛媛県松山市)を攻め、これを陥落させました。伊予での拠点を失った通堯は九州に渡り、九州を席巻している懐良親王・菊池武光を頼ることとなります。
さて、九州情勢については、新たに九州探題に任命された斯波氏経が長者原の戦いで菊池武光に敗れたところまで紹介しましたね。
その斯波氏経は正平20/貞治4(1365)年には更迭され、新たに渋川義行(しぶかわよしゆき:1348~1375)が九州探題に任命されました。渋川氏は足利一族の出身で、現在の群馬県渋川市を拠点とした武士です。義詮の正妻・渋川幸子の甥だった縁で登用されたものと考えられます。
ところがこの渋川義行も期待されたほどの活躍ができませんでした。渋川は正平21/貞治5(1366)年5月に備後にまで到達しましたが、九州はおろか長門に入ることすらできず、無為に時間を過ごしてしまいます。
結局渋川は九州探題に就任しておきながら一歩も九州の地を踏むことなく、建徳元/応安3(1370)年に九州探題を解任されてしまいました。北朝が九州を奪回するには、今川了俊の登場を待たなければなりません。