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30年日本史00590【鎌倉前期】比企能員の変 頼家危篤

 頼家とその敵対勢力との闘争が激しさを増す中、建仁3(1203)年7月20日、将軍頼家は病に倒れます。病状はなかなか回復せず、8月15日の鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ:捕獲した鳥獣を野に放す宗教儀式)にも欠席せざるを得ませんでした。
 頼家が近いうちに死ぬ可能性が高まり、将軍の後継をめぐってにわかに争いが生じます。後継として考え得るのは、頼家の長男である5歳の一幡(いちまん:1198~1203)か、あるいは頼家の弟である11歳の千幡のいずれかです。
 頼家の正室は、比企能員の娘である若狭局(わかさのつぼね:?~1203)です。比企能員としては、娘が産んだ一幡を次期将軍とすれば、将軍の外祖父として権勢を振るうことができるはずです。若狭局と比企能員は当然に一幡を支持します。
 一方、一幡が将軍になると困るのは北条一族です。北条時政、義時、政子らは当然に千幡を支持します。
 8月27日。もはや頼家は回復しないだろうと考えた北条一族は、比企一族の野望を打ち砕くべく、先手を打って頼家の財産を処分する手続を行いました。関東の守護・地頭職は頼家の長男である一幡に、関西の守護・地頭職は頼家の弟である千幡に、それぞれ相続させる決議がなされたのです。おそらく頼家自身にも明かさずに事は運ばれたものと思われます。
 比企一族は焦ります。9月2日。若狭局は病床の頼家に対し、財産が分割されてしまったことを話し、
「父(比企能員)は北条時政を追討すべきと考えています」
と話しました。頼家は驚いて能員を呼んで直接話し合い、時政を討つことで一致しました。頼家にとっては母の実家(北条氏)と妻の実家(比企氏)の対立ということになりますが、妻の方が大事だったのでしょう。
 ところが、この能員と頼家の密談を、障子の裏から密かに政子が盗み聞きをしていました。安っぽいサスペンスドラマのような話ですが、吾妻鏡にそのように書かれています。
 比企としては、頼家が生きているうちに次期将軍を一幡と定める必要があり、千幡や北条を亡き者とするべく早めに動き出したつもりだったのでしょう。しかし、北条方の動きは比企の予想をはるかに超えていました。というのも、この前日である9月1日、時政は朝廷に対して
「頼家が病死したので、千幡が後を継ぐこととなった。ついては千幡を征夷大将軍に任命いただきたい」
という申請を早々と送っていたのです。まだ死んでいないものを死んだものとして動き出していたのです。

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