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30年日本史01054【南北朝中期】八幡の戦い 京都奪回
SNSやyoutubeの影響力は予想以上に大きいようですね。この連載も完結する頃には多くの注目を集めていると嬉しいのですが。
義詮は近江の四十九院(滋賀県豊郷町)に逃れたわけですが、東国で尊氏が勝利したとの知らせが入ったことで畿内でも足利方に味方する軍勢が増え、義詮の陣には多くの味方が馳せ参じました。
正平7/観応3(1352)年3月11日。義詮は四十九院を発って、3万騎で京に向かいます。一方南朝方の北畠具忠は、千騎で足利勢を防ぐために大津に布陣していましたが、敵があまりに大軍なのを見てさすがに敵わぬと見て八幡へと退却しました。
3月15日。難なく入京した義詮は、東山に陣を取りました。京を守っていた南朝方の北畠顕能も戦を避けて都を去り、淀に布陣します。
さらに3月17日に義詮が南下して東寺に布陣したのを見て、顕能は淀をも退却して八幡へと戻ってしまいます。南朝方は次々と戦わずして退却しており、敗色濃厚に見えます。しかし八幡は三方が川に囲まれた恰好の要害であり、そこに7千騎で立て籠もる南朝軍を打破するのはなかなか難しそうです。
東寺にいる義詮のもとに、四国から細川顕氏ら3千騎も到着し、北朝方に寝返った赤松則祐も馳せ参じます。
3月24日。義詮は3万騎を率いて木津川を渡り、洞ヶ峠(京都府八幡市)に布陣しました。ここに布陣すれば、八幡への兵糧は絶たれてしまいます。
八幡の南朝方は、慌てて和田正武・楠木正儀を派遣して洞ヶ峠の攻撃に当たらせることとなりました。和田正武は出陣に当たって後村上天皇に謁見し、
「私の親類や兄弟は皆、これまでの合戦で討ち死にして果てました。今日の合戦は朝廷にとっても私にとっても一大事ですから、命を懸けた合戦をするつもりです。敵の大将を討ち取らずに、生きて再び御前に戻ってくることはないでしょう」
と述べました。太平記はこのように、いかにも戦死しそうなフラグを立てているのですが、和田正武はここでは死にません。
さて、いよいよ1ヶ月半に渡る八幡の戦いが始まります。
まず和田・楠木ら3千騎が荒坂山(大阪府枚方市)で敵を防ごうと備えていたところ、細川清氏・顕氏や土岐頼康・康貞(やすさだ:1325?~1352)兄弟らが攻めかかってきました。ちなみに清氏は細川本家の人間で、顕氏は細川奥州家という庶流の人間です。一方、土岐康貞は頼康の弟で「悪五郎」の異名で知られており、当代随一の力自慢で有名でした。このような手練れの者たちに攻められ、和田・楠木ら南朝軍は果たして乗り切れるのでしょうか。