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30年日本史01029【南北朝前期】直義政権の混乱
直義は多分ナンバー2に向いていて、トップに向いてない人だったんでしょうね。一方、尊氏は明らかにトップには向いているけど実務に向いてない人です。すごく良い組合せだったのに、なぜ対立してしまったのか・・・。
南朝との交渉に苦戦していた直義は、正平6/観応2(1351)年7月19日、なんと政務を辞することを申し出ました。兄との対決に勝利し、飛ぶ鳥を落とす勢いだったはずの直義が、なぜ辞任しなければならないのでしょう。
少し時間をさかのぼって、直義辞任に至るまでの伏線を見てみましょう。
太平記には
「直義は元々仁義のある人物で、政権を握ったからといって威勢を振るうような様子は一切見せなかった。ところが、直義の家臣たちが事あるごとに威勢を示すことが多くなった。直義邸の前には多くの訪問客が立ち並び、出入りする人は卑屈に身を縮めてへりくだった」
との記述があります。直義自身はおごり高ぶるような性格ではなかったものの、その側近たちの評判がとかく悪かったようですね。
3月30日には、直義家臣の斉藤利泰(さいとうとしやす:?~1351)が暗殺されました。犯人も動機も不明ですが、直義の政治に不満を持つ者が増えていたことを示す事件です。
4月8日には、赤松家の当主・範資が死去し、弟の則祐がこれを継ぎました。赤松家といえば円心・範資の2代に渡って尊氏に従っていたわけですが、則祐は鎌倉末期の時点から護良親王に私淑し、行動を共にしていた人物です。護良親王が十津川(奈良県十津川村)をさまよっていたとき
「赤松の忠節、平賀の智略、村上の武勇という三人の傑物がいれば、どうして天下を治められないことがあろうか」
とう有名な言葉で(00757回参照)忠節を称えられたのが赤松則祐でした。
当主を継いだ則祐はさっそく足利方を見限り、護良親王の遺児・興良親王を擁立するようになります。興良親王は北畠親房とともに常陸国小田城(茨城県つくば市)に立て籠もっていた人物ですが、常陸国の南朝勢が敗北したことを受けて、畿内に戻ってきていたのです。
つまり赤松範資の死によって、足利家は大事な味方を失ってしまったといえます。直義がしっかりしていれば、このような事態は防げたでしょう。
5月4日には、直義側近の桃井直常が女装した武士に襲撃される事件が起こりました。これも直義政権への不満が噴出したものでしょう。
これらの事情が重なり、直義は政権を担当する自信を失って7月19日に辞任を申し出たものとみられます。
そもそも直義は、兄との戦いで活躍した家臣に十分な恩賞を与えていませんでした。それどころか、兄側についた家臣に恩賞を支給したほどです。これでは部下はついてきません。不満が噴出するのは当たり前です。
結局、直義は内政を切り盛りする才覚には優れていたものの、家臣らが求めるリーダー像には合致しなかったものと思われます。