見出し画像

30年日本史00144【人代後期】24代仁賢天皇

 仁賢天皇元(488)年1月5日。兄の億計王が即位しました。仁賢天皇です。仁と賢とは、実にすばらしい名ですね。
 仁賢天皇は、故・雄略天皇の娘である春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を娶りました。あの父の仇である雄略天皇の血筋から妻を娶ったのです。きっと役人の中には、雄略天皇の代から仕える者たちが相当いたはずであり、彼らを取り込もうとしたのかもしれません。
 そして仁賢天皇と春日山田皇女の間に産まれた子は、小泊瀬皇子(おはつせのみこ)と名づけられました。雄略天皇の名である「大泊瀬」と似ていますね。雄略天皇の血を継ぐ者として期待をこめたのか、それとも後世、記紀を編纂するときに勝手に付けられた名前なのかは分かりません。
 この小泊瀬皇子は、仁賢天皇とは大違いで、人を処罰するのを好み、特に人が処刑されるのを見るのが好きだったといいます。父ではなく母方の祖父である雄略天皇に似てしまったのですね。
 さて、仁賢天皇は仁賢天皇11(498)年8月8日に崩御しました。10年間の治世でした。
 仁賢天皇の死後、大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が権勢をほしいままにし始めました。皇太子である小泊瀬皇子のためと称して宮殿を作り、完成すると自ら住み始めてしまいました。どうやら、平群真鳥は自ら王になろうとしていたようです。
 一方、小泊瀬皇子はどうしていたかというと、女にうつつを抜かしていたようです。物部麁鹿比(もののべのあらかび)の娘である影媛(かげひめ)に求婚していました。ところが、影媛は既に平群真鳥の息子である平群鮪(へぐりのしび)と通じていました。もう交際していたということですね。
 真鳥は皇太子に忠義を尽くそうとしないし、鮪には女を取られるし、小泊瀬皇子の平群一族への怨念が募ります。我慢ならない小泊瀬皇子は、鮪を殺害することにしました。皇位継承権云々よりも、先に女の恨みを清算することを優先させるとは、いかがなものかと思います。
 小泊瀬皇子が頼みにしていたのは、連(むらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村が兵を繰り出して、鮪を殺害します。この殺害は影媛の目の前で行われたといいます。なかなか残酷な話です。
 大伴金村はさらに、
「真鳥も討ってしまいなさい」
と進言します。小泊瀬皇子の了承を得て、大伴金村は平群真鳥をも討ちます。
 こうして、有力豪族であった平群氏は滅亡しました。奈良県北西部に平群町という町がありますね。あのあたりを領地としていた豪族は、こうして早々と滅びてしまいました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集