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30年日本史01007【南北朝前期】義詮、京を脱出

下書き作業では、間もなく戦国時代に入ります。以前「15世紀前半の東国情勢はかなり難しい」と書いたのですが、16世紀前半はどの地域も全部難しい気がします。上手くまとめられるかどうか・・・。

 直義が南朝に降参して事実上の同盟を組んだとの知らせを、京にいた義詮は直ちに早馬で父・尊氏に知らせました。尊氏はすぐさま三隅城(島根県浜田市)を攻撃中の高師泰に
「三隅城を攻めるのはやめて、京に戻れ」
との命令を書き送ります。そして自らも正平5/観応元/貞和6(1350)年12月29日、急ぎ福岡を発って京に引き返しました。
 尊氏・師直が京に戻ろうとしているのを知った直義は、
「ならば京に軍勢が着く前に、まず義詮を攻め落とせ」
と命令し、正平6/観応2/貞和7(1351)年1月7日、京都攻撃の準備として7千騎で男山(京都府八幡市)に陣を布きました。
 直義側近の桃井直常は、越中守護として越中国(富山県)にいたのですが、1月8日に越中を出て7千騎で京へと攻め上ります。桃井軍は東坂本(滋賀県大津市)へと布陣しました。
 京にいた足利義詮は、北東から迫る桃井軍と、南西から迫る直義軍に挟み撃ちされる構図となります。
「きっと負けるだろう」
と考えた家臣たちが次々と離反していき、1月8日には3万騎いた味方が、9日には1万騎に減り、さらに10日は3千騎に、12日には500騎になったと太平記は記録しています。これはさすがに誇張でしょうが、古文書には
「1月12日、上杉朝定(うえすぎともさだ:1321~1352)・上杉朝房(うえすぎともふさ:1335~1391)・今川範国が義詮を裏切って京を脱出し、石清水の直義のもとへ向かった。翌13日、怒った義詮は彼らの邸宅を破壊した」
との記録が残っていますから、大量の裏切りが出たこと自体は史実のようです。
 尊氏・師直は義詮救援のため中国街道を必死に東上していますが、間に合いそうにありません。
 義詮側近の仁木・細川らは、
「我々は小勢です。あの大軍と向かい合って勝てることは千に一つもないでしょう。今、将軍が西国から東上しておられるところですから、一旦京を脱出して、将軍の軍勢と合流してから京を奪還するのがよいでしょう」
と進言しました。義詮は
「それが道理だ」
と答えて、1月15日早朝、京を出て西へと逃亡しました。

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