30年日本史01097【南北朝中期】筑後川の戦い 大保原の決戦
にらみ合いが続く中、先に動いたのは菊池勢でした。
正平14/延文4(1359)年8月6日夜。武光の長男・菊池武政(きくちたけまさ:1342~1374)が300人の兵を率いて密かに宝満川を渡り、大保原に布陣していた敵の背後へと回り込みました。その間に菊池本隊が暗闇に乗じて敵の前線に近寄って、前後から同時に攻撃しようという作戦です。
この作戦は、途中で敵に発見されて声を上げられてしまったものの、概ね上手くいきました。少弐軍は狭いところに大勢がひしめき合っていたので、思わぬ敵の出現で大混乱となり、同士討ちを起こして約300人が戦死してしまいます。
武光はここぞとばかりに本隊にも突撃するよう指示し、暗闇の中で少弐軍は逃げ場を失い次々と討たれていきました。少弐軍は頼尚の長男・少弐直資(しょうにただすけ:?~1359)が戦死するほどの大打撃を受けます。
徐々に夜が明けてくると、少弐軍は勢いを取り戻していきます。少弐頼尚は必死に軍勢を立て直し、反撃に入ります。
敵の構えを見た懐良親王は、早くに敵の大将を討とうと少弐頼尚の本陣に突撃しましたが、敵兵たちは
「大将がやって来たぞ。討ち取れ」
と言って親王を次々と取り囲みました。菊池武光は助けにいこうと必死に走りますが間に合わず、親王は狙い撃ちにされ重傷を負います。懐良は自刃を覚悟しますが、そこに駆けつけてきた味方に助けられ、どうにか筑後川の南岸まで逃げることができました。
味方が徐々に苦戦に追い込まれる中、武光は
「いつのために惜しむ命か。日頃の約束通り、私に続く兵は残らず討ち死にせよ」
と叫んで、決死の覚悟で敵陣に突入します。
少弐方は菊池の大将の姿を見て、次々と矢を放ってきますが、武光はそれに備えて分厚い板を重ねた鎧を着ていたので、矢がいくら当たっても鎧を貫通することはありません。馬が射られて倒れましたが、武光は馬を何度も乗り換えて敵陣に突っ込みます。17回も攻めかかったところ、武光は兜を斬られて鬢も二太刀ほど斬られた状態となりました。
もはや絶体絶命と思われる中、敵の大将の一人・少弐武藤(しょうにたけふじ:?~1359)が襲い掛かってきました。武光は武藤と馬を寄せ合って組み合い、馬から落ちたところで相手の首を取り、兜を取ってかぶって敵の馬に乗り替えました。
結局、両軍の戦いは未明から夕方まで続き、壊滅的被害を受けた少弐軍は遂に大宰府へと引き上げていきました。菊池勢は大損害を受けながらも、どうにか勝利したのです。
この大保原は現在の福岡県小郡市役所の近くと考えられ、市役所の隣にはそれを示す記念碑があります。