30年日本史00987【南北朝前期】菊池武光登場
観応の擾乱の開幕に向けて舞台が整いつつありますが、ここで九州の状況に目を転じてみましょう。
前述のとおり、尊氏は建武3(1336)年、多々良浜の戦いで菊池武敏・阿蘇惟直に勝利したわけですが、この戦いで没落した菊池氏は、当主・武重が延元3/暦応元(1338)年に死去するなど、さらに勢いを失っていました。
武重が子を持たないまま病死したため、当主の座を継いだのは弟の武士(たけひと:1321?~1401?)でした。武士は兄弟の中でたまたま母の身分が高かったゆえに当主に選ばれたようですが、これがどうも頼りない人物で、菊池氏の没落は止まらなかったようです。家臣らがついて来ず、武士は引退を余儀なくされ、菊池家は当主不在の状態となりました。
こうした菊池氏の混乱に乗じて、周囲の豪族らが攻撃を仕掛けてきます。興国6/貞和元(1345)年には北朝方の合志幸隆(こうしゆきたか)が攻め込んできて、菊池の本城である菊之城(熊本県菊池市)を占領してしまいます。合志幸隆は現在の熊本県合志市を拠点とした豪族です。
この絶体絶命のピンチに颯爽と登場したのが、武士の弟に当たる菊池武光(きくちたけみつ:1319?~1373)でした。
南朝九州勢の中でも最大のヒーローである菊池武光がここに初登場しました。武光は菊池家歴代当主の中でも格段に人気があり、熊本県菊池市と福岡県大刀洗町に立派な銅像があります。ここで菊池武光について詳しく紹介しておきましょう。
鎌倉末期、菊池武時が鎮西探題を襲撃した際、嫡男・武重や次男・頼隆のほか、まだ14歳の元服前だった武光も出陣していました。少弐・大友の裏切りを知り、死を覚悟した武時は嫡男武重を逃がしますが、このとき武光もまた聖福寺(福岡市博多区)に預け、逃れさせました。おそらく武光は特に父の期待を受けていたのでしょう。
その武光も成長し、今や26歳です。菊之城が合志幸隆に落とされたと聞いた武光は、盟友・阿蘇惟澄の助力を得てすぐさま出撃しました。
興国6/貞和元(1345)年3月、武光は6日間に渡る総攻撃により菊之城を取り返しました。
この功績により武光は家臣らから強く推戴され、菊池家の家督を相続することとなります。本来は当主となる可能性すらなかった庶子が菊池家の頂点に立ち、九州の戦況を大きく変えることとなるのです。
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