30年日本史00750【鎌倉末期】後醍醐天皇捕らわる
有王山の麓で休息していた後醍醐天皇一行は、山狩りをしていた幕府方の武士・深須五郎(みすごろう)に見つかってしまいます。後醍醐天皇は
「そなたが分別あるものならば、天子の寵恩をいただいて家の繁栄を志すがよいぞ」
と述べ、深須に見逃してもらうよう働きかけました。深須はかなり迷ったようですが、自分が捕縛せずともどうせ他の者が見つけるに違いなく、そうなると見逃した罪を問われないとも限りません。深須は天皇を護送することに決めました。
深須は粗末な輿しか持っておらず、やむなくそこに天皇を乗せて運ぶこととなりました。
元弘元/元徳3(1331)年10月2日。後醍醐天皇一行は宇治の平等院へ連行されました。そこに鎌倉から派遣された常葉範貞がやって来て、三種の神器を引き渡すよう天皇に要求しました。
しかし後醍醐天皇は強気でした。
「鏡は笠置の本堂に残して来たので、戦場の灰となっただろう。勾玉は山中をさまよったときに木の枝にかけてきたので、末長く我が国のお守りとなることであろう。剣は武士どもが天罰を恐れず玉体に近づいたときに自刃するため、片時も離さず持っている」
なんと、三つのうち剣しか持っていないというのです。もっともこれは嘘でした。
さらに幕府は天皇を京に連れ戻そうとしますが、天皇は
「行幸の儀式を整えなければここを動かない」
と言って聞きません。幕府はやむなく行列を整えた上で、10月3日、天皇を京まで護送しました。護送とはいえ、正式な行幸の儀式にのっとった行列でした。
幕府方は既に光厳天皇を即位させていますから、幕府にとって後醍醐天皇はもはや天皇ではありません。かといって太上天皇(上皇)の号が贈られたわけでもないので上皇でもありません。御所に送り返すわけにもいかないので、六波羅に幽閉することとなりました。
幽閉された後醍醐天皇は、
「まだなれぬ 板屋の軒の むら時雨 音を聞くにも 濡るる袖かな」
と、粗末な館で幽閉生活を送る自らを嘆く歌を詠みました。
10月6日。再三に渡る要求を受け、後醍醐天皇は遂に神器を光厳天皇に渡すことに同意しました。公卿・堀川具親(ほりかわともちか:1294~?)らが神器を取りにきたところで、幕府方の武士たちは堀川に
「幽閉中の帝が本物かどうか分からないので、確認してほしい」
と依頼するも、堀川は断ったといいます。結局、後日六波羅にやって来た大納言・西園寺公宗が後醍醐天皇に会い、間違いなく本人である旨の確認を行いました。
なお、このとき後醍醐天皇が堀川具親に引き渡した三種の神器について、後醍醐天皇は後に「渡したのは偽物である」と主張していますが、これも嘘でしょう。とても偽の神器を製作する暇があったとは思えません。