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30年日本史01046【南北朝中期】武蔵野合戦 小手指原の決戦

最近、太平記へのダメ出し的な記述が増えている気がします。だってあまりに出来が悪い物語ですから・・・。

 正平7(1352)年閏2月20日朝8時。新田義宗は小手指原(埼玉県所沢市)へと出陣しました。彼はまだ、三浦・石塔が土壇場で尊氏を裏切るという陰謀が崩れたことを知りません。
 新田方は、義宗以下5万あまり、義興以下2万あまり、脇屋義治以下2万あまりからなる総勢10万騎の大軍勢です。
 一方、尊氏方は10万騎を5隊に分けていました。大将格は仁木頼章・義長兄弟や饗庭命鶴丸らです。
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 いやいや、尊氏は「閏2月16日早朝、僅か500騎で鎌倉を発った」という話をしたばかりです。圧倒的に不利な状況をどう乗り切るのか、ハラハラしながら読んでいたのに、太平記はここで突然「尊氏軍は10万騎いる」と言い出すのです。一体どこで味方が増えたのか分かりません。何といい加減な書物なのでしょう。
 ともかく太平記がいうには、小手指原の戦いは新田・足利両軍合わせて20万騎もの大決戦だったというのです。話半分に聞いておきましょう。
 両軍の鬨の声は、上は須弥山(しゅみせん)まで、下は金輪際(こんりんざい)まで聞こえるほどの大変なものでした。須弥山とは仏教界で天界に届くといわれている山で、金輪際は同じく仏教界で大地の底にあるといわれている世界の果てのことです。「金輪際」は転じて「物事の終わり」を表す言葉としてよく使われていますね。
 互いの主力が東西からぶつかり合い、
「血が馬の蹄に蹴り上げられて紅葉に注ぐ雨のようだった」
「屍は野一面に横たわって地に溢れた」
などと表現される大激戦が繰り広げられました。
 このときの尊氏の差配はなかなかのものでした。攻撃するときは一挙に行い、退くときは左右に分かれてすっと退き、新手とすばやく交代するのです。
 新田軍は苦戦を強いられますが、義宗は大将でありながら次々と前に出て、
「今ここで尊氏の首を取って軍門にさらさなければ、いつできようか」
と言って、ただただ尊氏の大将首のみを狙い続けました。
 新田義宗に執拗に狙われた尊氏は、ひたすら逃げ回ります。石浜で義宗に追い付かれ、尊氏はもはやこれまでと覚悟し、上帯を切って投げ捨て高紐を解こうとしました。切腹の準備です。尊氏が切腹しようとするのは一体何度目でしょう。
 この石浜という場所が現在でいうところのどこなのか、確定していません。東京都台東区石浜小学校や東京都荒川区石浜神社を当てる説もあるようですが、小手指(埼玉県所沢市)から離れすぎている気がします。

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