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30年日本史00946【南北朝初期】塩冶判官讒死 不用意な発言
ここからは「高師直がいかにひどい奴だったか」というエピソードなのですが、もとより後世の創作です。高師直は実際には卓越した戦術家で人格的にも魅力ある人物だったかもしれず、書いていて可哀想になってきます。
越前での攻防が続いている最中の興国2/暦応4(1341)年4月1日、室町幕府の有力御家人であった塩冶判官こと塩冶高貞(えんやのたかさだ:?~1341)が悲惨な最期を迎えることとなりました。ここからは、そのエピソードを詳しく記していきましょう。
越前において南朝方・脇屋義助が斯波高経の籠もる小黒丸城を陥落させたため、京にいた北朝方は慌てて援護の兵を派遣すべく相談を始めました。
越前の南朝軍を正面から攻める大将は高師治(こうのもろはる)、搦手から攻める大将は土岐頼遠、敦賀港から海路で攻める大将は六角氏頼が、それぞれ選ばれました。
塩冶高貞は海路を担当する司令官の一人として、出雲・伯耆の軍勢を率いて300艘の舟で越前に上陸することとなりました。
軍議を終えて、いよいよ各大将が一旦地元に帰って兵を集めようということになり、塩冶も地元で準備をしていた際に、思いがけない経緯で高師直によって討たれてしまうこととなるのです。その経緯は次のようなものでした。
その頃高師直は、たまたま自宅で家来とともに酒宴に興じていました。酒宴には様々な分野の芸の達人を集めて、その芸を披露させていました。
夜が更けてきた中、琵琶の弾き手が平家物語を吟じていました。物語は、源頼政による鵺退治の話(00419回参照)にさしかかりました。鵺を見事に退治した頼政に対し、関白はひどく感心して、頼政に菖蒲御前(あやめごぜん)という美人の女房を与えるというストーリーです。
このストーリーを聞いた一同は、頼政への褒美が美女だったことについて、それぞれ感想を述べました。若い郎党たちが
「頼政が美女を賜ったのは名誉なことだが、所領をいただく方が嬉しいだろう」
と言うと、師直は
「お前たちの言い分はとんでもない的外れだ。菖蒲御前ほどの美女ならば、国の10ヶ所くらい、所領の2、30ヶ所くらいに相当するだろう」
と述べました。
そこに、侍従局(じじゅうのつぼね)という女房がやって来て要らぬことを言いました。
「菖蒲御前は大した美人ではなかったそうですよ。それよりも、早田宮家(はやたのみやけ)の娘・顔世御前(かおよごぜん)はこの世に例のない美女に違いありません」
師直は、この話にひどく関心を持ち始めました。
史実かどうかは分かりませんが、師直はひどい女好きで、護良親王の母を奪って自らの妾にしたり、貴族の娘に次々手を出したりして、評判を落としていました。二条関白の妹を盗んで男子を産ませたという逸話もあります。美女と聞けば冷静を失うほど固執したのでしょう。